わら》げながら、あの十文字の護符を私どもの上にさしかざして、
「その方どもの罪業《ざいごう》は無知|蒙昧《もうまい》の然らしめた所じゃによって、天上皇帝も格別の御宥免《ごゆうめん》を賜わせらるるに相違あるまい。さればわしもこの上なお、叱り懲《こら》そうとは思うて居ぬ。やがてはまた、今夜の闇討が縁となって、その方どもが摩利の御教《みおしえ》に帰依し奉る時も参るであろう。じゃによってその時が参るまでは、一先《ひとまず》この場を退散致したが好《よ》い。」と、もの優しく申してくれました。もっともその時でさえ、非人たちは、今にも掴みかかりそうな、凄じい気色を見せて居りましたが、これもあの沙門の鶴の一声で、素直に私どもの帰る路を開いてくれたのでございます。
そこで私と甥とは、太刀を鞘におさめる間《ま》も惜しいように、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》四条河原から逃げ出しました。その時の私の心もちと申しましたら、嬉しいとも、悲しいとも、乃至《ないし》はまた残念だとも、何ともお話しの致しようがございません。でございますから河原が遠くなって、ただ、あの芥火の赤く揺《ゆら》めくまわりに、白癩どもが蟻《あり》のように集って、何やら怪しげな歌を唄って居りますのが、かすかに耳へはいりました時も、私どもは互の顔さえ見ずに、黙って吐息《といき》ばかりつきながら、歩いて行ったものでございます。
二十九
それ以来私どもは、よるとさわると、額を鳩《あつ》めて、摩利信乃法師《まりしのほうし》と中御門《なかみかど》の姫君とのいきさつを互に推量し合いながら、どうかしてあの天狗法師を遠ざけたいと、いろいろ評議を致しましたが、さて例の恐ろしい幻の事を思い出しますと、容易に名案も浮びません。もっとも甥《おい》の方は私より若いだけに、まだ執念深く初一念を捨てないで、場合によったら平太夫《へいだゆう》のしたように、辻冠者どもでも駆り集めたら、もう一度四条河原の小屋を劫《おびやか》そうくらいな考えがあるようでございました。所がその中に、思いもよらず、また私どもは摩利信乃法師の神変不思議な法力《ほうりき》に、驚くような事が出来たのでございます。
それはもう秋風の立ち始めました頃、長尾《ながお》の律師様《りっしさま》が嵯峨《さが》に阿弥陀堂《あみだどう》を御建てになって、その供養《くよう》をなすった時の事でございます。その御堂《みどう》も只今は焼けてございませんが、何しろ国々の良材を御集めになった上に、高名《こうみょう》な匠《たくみ》たちばかり御召しになって、莫大《ばくだい》な黄金《こがね》も御かまいなく、御造りになったものでございますから、御規模こそさのみ大きくなくっても、その荘厳を極めて居りました事は、ほぼ御推察が参るでございましょう。
別してその御堂供養《みどうくよう》の当日は、上達部殿上人《かんだちめてんじょうびと》は申すまでもなく、女房たちの参ったのも数限りないほどでございましたから、東西の廊に寄せてあるさまざまの車と申し、その廊廊の桟敷《さじき》をめぐった、錦の縁《へり》のある御簾《みす》と申し、あるいはまた御簾際になまめかしくうち出した、萩《はぎ》、桔梗《ききょう》、女郎花《おみなえし》などの褄《つま》や袖口の彩りと申し、うららかな日の光を浴びた、境内《けいだい》一面の美しさは、目《ま》のあたりに蓮華宝土《れんげほうど》の景色を見るようでございました。それから、廊に囲まれた御庭の池にはすきまもなく、紅蓮白蓮《ぐれんびゃくれん》の造り花が簇々《ぞくぞく》と咲きならんで、その間を竜舟《りゅうしゅう》が一艘《いっそう》、錦の平張《ひらば》りを打ちわたして、蛮絵《ばんえ》を着た童部《わらべ》たちに画棹《がとう》の水を切らせながら、微妙な楽の音《ね》を漂わせて、悠々と動いて居りましたのも、涙の出るほど尊げに拝まれたものでございます。
まして正面を眺めますと、御堂《みどう》の犬防《いぬふせ》ぎが燦々と螺鈿《らでん》を光らせている後には、名香の煙《けぶり》のたなびく中に、御本尊の如来を始め、勢至観音《せいしかんのん》などの御《おん》姿が、紫磨黄金《しまおうごん》の御《おん》顔や玉の瓔珞《ようらく》を仄々《ほのぼの》と、御現しになっている難有《ありがた》さは、また一層でございました。その御仏《みほとけ》の前の庭には、礼盤《らいばん》を中に挟《はさ》みながら、見るも眩《まばゆ》い宝蓋の下に、講師|読師《とくし》の高座がございましたが、供養《くよう》の式に連っている何十人かの僧どもも、法衣《ころも》や袈裟《けさ》の青や赤がいかにも美々しく入り交って、経を読む声、鈴《れい》を振る音、あるいは栴檀沈水《せんだんちんすい》の香《かおり》などが、
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