りましたが、さてその大食調入食調《だいじきちょうにゅうじきちょう》の伝授を御望みになりますと、少納言はどう思召したのか、この仰せばかりは御聞き入れになりません。それが再三押して御頼みになっても、やはり御満足の行くような御返事がなかったので、御年若な若殿様は、一方ならず残念に思召したのでございましょう。ある日大殿様の双六《すごろく》の御相手をなすっていらっしゃる時に、ふとその御不満を御洩しになりました。すると大殿様はいつものように鷹揚《おうよう》に御笑いになりながら、「そう不平は云わぬものじゃ。やがてはその譜も手にはいる時節があるであろう。」と、やさしく御慰めになったそうでございます。ところがそれから半月とたたないある日の事、中御門の少納言は、堀川の御屋形《おやかた》の饗《さかもり》へ御出になった帰りに、俄《にわか》に血を吐いて御歿《おなくな》りになってしまいました。が、それは先ず、よろしいと致しましても、その明くる日、若殿様が何気なく御居間へ御出でになると、螺鈿《らでん》を鏤《ちりば》めた御机の上に、あの伽陵《がりょう》の笙と大食調入食調の譜とが、誰が持って来たともなく、ちゃんと載っていたと申すではございませんか。
その後《のち》また大殿様が若殿様を御相手に双六《すごろく》を御打ちになった時、
「この頃は笙も一段と上達致したであろうな。」と、念を押すように仰有《おっしゃ》ると、若殿様は静に盤面《ばんめん》を御眺めになったまま、
「いや笙はもう一生、吹かない事に致しました。」と、冷かに御答えになりました。
「何としてまた、吹かぬ事に致したな。」
「聊《いささ》かながら、少納言の菩提《ぼだい》を弔《とむら》おうと存じますから。」
こう仰有《おっしゃ》って若殿様は、じっと父上の御顔を御見つめになりました。が、大殿様はまるでその御声が聞えないように勢いよく筒《とう》を振りながら、
「今度もこの方が無地勝《むじがち》らしいぞ。」とさりげない容子《ようす》で勝負を御続けになりました。でございますからこの御問答は、それぎり立ち消えになってしまいましたが、御親子の御仲には、この時からある面白くない心もちが、挟まるようになったかと存ぜられます。
四
それから大殿様の御隠れになる時まで、御親子《ごしんし》の間には、まるで二羽の蒼鷹《あおたか》が、互に相手を窺いながら、空を飛びめぐっているような、ちっとの隙《すき》もない睨《にら》み合いがずっと続いて居りました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧嘩口論の類《たぐい》が、大御嫌《だいおきら》いでございましたから、大殿様の御所業《ごしょぎょう》に向っても、楯《たて》を御つきになどなった事は、ほとんど一度もございません。ただ、その度に皮肉な御微笑を、あの癖のある御口元にちらりと御浮べになりながら、一言二言《ひとことふたこと》鋭い御批判を御漏《おも》らしになるばかりでございます。
いつぞや大殿様が、二条大宮の百鬼夜行《ひゃっきやぎょう》に御遇いになっても、格別御障りのなかった事が、洛中洛外の大評判になりますと、若殿様は私《わたくし》に御向いになりまして、「鬼神《きじん》が鬼神に遇うたのじゃ。父上の御身《おみ》に害がなかったのは、不思議もない。」と、さも可笑《おか》しそうに仰有《おっしゃ》いましたが、その後また、東三条の河原院《かわらのいん》で、夜な夜な現れる融《とおる》の左大臣の亡霊を、大殿様が一喝して御卻《おしりぞ》けになった時も、若殿様は例の通り、唇を歪《ゆが》めて御笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んで居られたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足らぬと思われて、消え失せられたに相違ない。」と、仰有《おっしゃ》ったのを覚えて居ります。
それがまた大殿様には、何よりも御耳に痛かったと見えまして、ふとした拍子《ひょうし》に、こう云う若殿様の御言葉が、御聞きに達する事でもございますと、上べは苦笑いに御紛《おまぎら》わしなすっても、御心中の御怒りはありありと御顔に読まれました。現に内裡《だいり》の梅見の宴からの御帰りに、大殿様の御車《みくるま》の牛がそれて、往来の老人に怪我させた時、その老人が反《かえ》って手を合せて、権者《ごんじゃ》のような大殿様の御牛《みうし》にかけられた冥加《みょうが》のほどを、難有《ありがた》がった事がございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛飼いの童子に御向いなさりながら、「その方はうつけものじゃな。所詮《しょせん》牛をそらすくらいならば、なぜ車の輪にかけて、あの下司《げす》を轢《ひ》き殺さぬ。怪我をしてさえ、手を合せて、随喜するほどの老爺《おやじ》じゃ。轍《わだち》の下に往生を遂げたら
前へ
次へ
全25ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング