、聖衆《しょうじゅ》の来迎《らいごう》を受けたにも増して、難有《ありがた》く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻《ごせっかん》くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆《きも》を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居《お》るようでございます。この後《のち》とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦《しんたん》までも伝える事でございましょう。」と、素知《そし》らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我《が》を御折りになったと見えて、苦《にが》い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
 こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守《おまも》りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨ぎすました焼刃《やきば》の※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《にお》いを嗅ぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまた何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心から御代替《ごだいがわ》りがしたと云う気が、――それも御屋形《おやかた》の中ばかりでなく、一天下《いってんか》にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌《あわただ》しい気が致したのでございます。

        五

 でございますから若殿様が、御家督を御取りになったその日の内から、御屋形《おやかた》の中へはどこからともなく、今までにない長閑《のどか》な景色《けしき》が、春風《しゅんぷう》のように吹きこんで参りました。歌合《うたあわ》せ、花合せ、あるいは艶書合《えんしょあわ》せなどが、以前にも増して度々御催しになられたのは、申すまでもございますまい。それからまた、女房たちを始め、侍どもの風俗が、まるで昔の絵巻から抜け出して来たように、みやびやかになったのも、元よりの事でございます。が、殊に以前と変ったのは、御屋形の御客に御出でになる上《うえ》つ方《がた》の御顔ぶれで、今はいかに時めいている大臣大将でも、一芸一能にすぐれていらっしゃらない方は、滅多《めった》に若殿様の御眼にはかかれません。いや、たとい御眼にかかれたのにしても、御出でになる方々が、皆風流の才子ばかりでいらっしゃいますから、さすがに御身を御愧《おは》じになって、自然御み足が遠くなってしまうのでございます。
 その代りまた、詩歌管絃の道に長じてさえ居りますれば、無位無官の侍でも、身に余るような御褒美《ごほうび》を受けた事がございます。たとえば、ある秋の夜に、月の光が格子にさして、機織《はたお》りの声が致して居りました時、ふと人を御召しになると、新参の侍が参りましたが、どう思召したのか、急にその侍に御向いなすって、
「機織《はたお》りの声が致すのは、その方《ほう》にも聞えような。これを題に一首|仕《つかまつ》れ。」と、御声がかりがございました。するとその侍は下《しも》にいて、しばらく頭《かしら》を傾けて居りましたが、やがて、「青柳《あおやぎ》の」と、初《はじめ》の句を申しました。するとその季節に合わなかったのが、可笑《おかし》かったのでございましょう。女房たちの間には、忍び笑いの声が起りましたが、侍が続いて、
「みどりの糸をくりおきて夏へて秋は機織《はたお》りぞ啼く。」と、さわやかに詠じますと、たちまちそれは静まり返って、萩模様のある直垂《ひたたれ》を一領、格子の間から月の光の中へ、押し出して下さいました。実はその侍と申しますのが、私《わたくし》の姉の一人息子で、若殿様とは、ほぼ御年輩《ごねんぱい》も同じくらいな若者でございましたが、これを御奉公の初めにして、その後《のち》も度々|難有《ありがた》い御懇意を受けたのでございます。
 まず、若殿様の御平生《ごへいぜい》は、あらあらかようなものでございましょうか。その間に北の方《かた》も御迎えになりましたし、年々の除目《じもく》には御官位も御進みになりましたが、そう云う事は世上の人も、よく存じている事でございますから、ここにはとり立てて申し上げません。それよりも先を急ぎますから、最初に御約束致しました通り、若殿様の御一生に、たった一度しかなかったと云う、不思議な出来事の御話へはいる事に致しましょう。と申しますのは、大殿様とは御違いになって、天《あめ》が下《した》の色ごのみな
前へ 次へ
全25ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング