申しましたら、橋の下の私の甥《おい》には、体中の筋骨《すじぼね》が妙にむず痒《がゆ》くなったくらい、待ち遠しかったそうでございます。
「たとい河原とは申しながら、予も洛中に住まうものじゃ。堀川の殿がこの日頃、姫君のもとへしげしげと、通わるる趣も知っては居《お》る。――」
 やがてまた摩利信乃法師は、相不変《あいかわらず》もの静かな声で、独り言のように言《ことば》を継《つ》ぐと、
「が、予は姫君が恋しゅうて、御意《ぎょい》得たいと申すのではない。予の業欲《ごうよく》に憧るる心は、一度唐土《ひとたびもろこし》にさすらって、紅毛碧眼の胡僧《こそう》の口から、天上皇帝の御教《みおしえ》を聴聞《ちょうもん》すると共に、滅びてしもうた。ただ、予が胸を痛めるのは、あの玉のような姫君も、この天地《あめつち》を造らせ給うた天上皇帝を知られぬ事じゃ。されば、神と云い仏《ほとけ》と云う天魔外道《てんまげどう》の類《たぐい》を信仰せられて、その形になぞらえた木石にも香花《こうげ》を供えられる。かくてはやがて命終《めいしゅう》の期《ご》に臨んで、永劫《えいごう》消えぬ地獄の火に焼かれ給うに相違ない。予はその事を思う度に、阿鼻大城《あびたいじょう》の暗の底へ逆落しに落ちさせらるる、あえかな姫君の姿さえありありと眼に浮んで来るのじゃ。現に昨夜《ゆうべ》も。――」
 こう云いかけて、あの沙門はさも感慨に堪えないらしく、次第に力の籠って来た口をしばらくの間とざしました。

        二十三

「昨晩《ゆうべ》、何かあったのでございますか。」
 ほど経て平太夫《へいだゆう》が、心配そうに、こう相手の言《ことば》を促しますと、摩利信乃法師《まりしのほうし》はふと我に返ったように、また元の静な声で、一言《ひとこと》毎に間を置きながら、
「いや、何もあったと申すほどの仔細はない。が、予は昨夜《ゆうべ》もあの菰《こも》だれの中で、独りうとうとと眠って居《お》ると、柳の五つ衣《ぎぬ》を着た姫君の姿が、夢に予の枕もとへ歩みよられた。ただ、現《うつつ》と異ったは、日頃つややかな黒髪が、朦朧と煙《けぶ》った中に、黄金《こがね》の釵子《さいし》が怪しげな光を放って居っただけじゃ。予は絶えて久しい対面の嬉しさに、『ようこそ見えられた』と声をかけたが、姫君は悲しげな眼を伏せて、予の前に坐られたまま、答えさえせらるる気
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