の観世音菩薩の御利益《ごりやく》ででもございましょう。平太夫一生の内に、これほど嬉しい事はございません。」
「いや、予が前で神仏《しんぶつ》の名は申すまい。不肖《ふしょう》ながら、予は天上皇帝の神勅を蒙って、わが日の本に摩利《まり》の教を布《し》こうと致す沙門の身じゃ。」

        二十二

 急に眉をひそめたらしいけはいで、こう摩利信乃法師《まりしのほうし》が言《ことば》を挟みましたが、存外|平太夫《へいだゆう》は恐れ入った気色《けしき》もなく、扇と舌と同じように働かせながら、
「成程さようでございましたな。平太夫も近頃はめっきり老耄《おいぼ》れたと見えまして、する事為す事ことごとく落度《おちど》ばかりでございます。いや、そう云う次第ならもうあなた様の御前《おまえ》では、二度と神仏の御名《みな》は口に致しますまい。もっとも日頃はこの老爺《おやじ》も、余り信心気《しんじんぎ》などと申すものがある方ではございません。それをただ今急に、観世音菩薩などと述べ立てましたのは、全く久しぶりで御目にかかったのが、嬉しかったからでございます。そう申せば姫君も、幼馴染のあなた様が御《ご》無事でいらっしゃると御聞きになったら、どんなにか御喜びになる事でございましょう。」と、ふだん私どもに向っては、返事をするのも面倒そうな、口の重い容子《ようす》とは打って変って、勢いよく、弁じ立てました。これにはあの摩利信乃法師も、返事のしようさえなさそうにしばらくはただ、頷《うなず》いてばかりいるようでございましたが、やがてその姫君と云う言《ことば》を機会《しお》に、
「さてその姫君についてじゃが、予は聊《いささ》か密々に御意《ぎょい》得たい仔細《しさい》がある。」と、云って、一段とまた声をひそめながら、
「何と平太夫、その方の力で夜分なりと、御目にかからせてはくれまいか。」
 するとこの時橋の上では、急に扇の音が止んでしまいました。それと同時に私の甥は、危く欄干の方を見上げようと致しましたが、元より迂闊《うかつ》な振舞をしては、ここに潜んでいる事が見露《みあらわ》されないものでもございません。そこでやはり河原蓬《かわらよもぎ》の中を流れて行く水の面《おもて》を眺めたまま、息もつかずに上の容子へ気をくばって居りました。が、平太夫は今までの元気に引き換えて、容易に口を開きません。その間の長さと
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