が雨もよいの空を想《おも》わせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、朧《おぼろ》げには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人数《にんず》も目立たないように、僅か一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠田《とおだ》の蛙《かわず》の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美福門《びふくもん》の外は、よく狐火の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土《ついじ》の陰で、怪しい咳《しわぶき》の声がするや否や、きらきらと白刃《しらは》を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々《たけだけ》しく襲いかかりました。
と同時に牛飼《うしかい》の童部《わらべ》を始め、御供の雑色《ぞうしき》たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破《すわ》と云う間もなく、算《さん》を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目もくれる気色《けしき》もなく、矢庭《やにわ》に一人が牛の※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]《はづな》を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃《しらは》の垣を造って、犇々《ひしひし》とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立《かしらだ》ったのが横柄に簾《すだれ》を払って、「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな。」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容子《ようす》がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらっしったのが、扇を斜《ななめ》に相手の方を、透かすようにして御窺いなさいますと、その時その盗人の中に嗄《しわが》れた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ。」と、憎々《にくにく》しげに答えました。するとその声が、また何となくどこかで一度、御耳になすったようでございましたから、愈《いよいよ》怪しく思召して、明るい月の光に、その声の主《ぬし》を、きっと御覧になりますと、面《おもて》こそ包んで居りま
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