こし》に人となったものやら、とんと確かなことはわからないと云う事でございました。中にはまた、震旦でも本朝でもない、天竺《てんじく》の涯《はて》から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが、夜は墨染の法衣《ころも》が翼になって、八阪寺《やさかでら》の塔の空へ舞上るなどと云う噂もございましたが、元よりそれはとりとめもない、嘘だったのでございましょう。が、さような噂が伝わりましたのも、一応はもっともかと存じられますくらい、この摩利信乃法師の仕業には、いろいろ幻妙な事が多かったのでございます。
十二
と申しますのは、まず第一に摩利信乃法師《まりしのほうし》が、あの怪しげな陀羅尼《だらに》の力で、瞬く暇に多くの病者を癒《なお》した事でございます。盲目《めしい》が見えましたり、跛《あしなえ》が立ちましたり、唖《おし》が口をききましたり――一々数え立てますのも、煩わしいくらいでございますが、中でも一番名高かったのは、前《さき》の摂津守《せっつのかみ》の悩んでいた人面瘡《にんめんそう》ででもございましょうか。これは甥《おい》を遠矢にかけて、その女房を奪ったとやら申す報《むくい》から、左の膝頭にその甥の顔をした、不思議な瘡《かさ》が現われて、昼も夜も骨を刻《けず》るような業苦《ごうく》に悩んで居りましたが、あの沙門の加持《かじ》を受けますと、見る間にその顔が気色《けしき》を和《やわら》げて、やがて口とも覚しい所から「南無《なむ》」と云う声が洩れるや否や、たちまち跡方《あとかた》もなく消え失せたと申すのでございます。元よりそのくらいでございますから、狐の憑《つ》きましたのも、天狗の憑《つ》きましたのも、あるいはまた、何とも名の知れない、妖魅鬼神《ようみきじん》の憑きましたのも、あの十文字《じゅうもんじ》の護符を頂きますと、まるで木《こ》の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。
が、摩利信乃法師の法力が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹謗《ひぼう》したり、その信者を呵責《かしゃく》したり致しますと、あの沙門は即座にその相手に、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が腥《なまぐさ》い血潮に変ったものもございますし、持《も》ち田《だ》の稲を一夜《いちや》の
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