、聖衆《しょうじゅ》の来迎《らいごう》を受けたにも増して、難有《ありがた》く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻《ごせっかん》くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆《きも》を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居《お》るようでございます。この後《のち》とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦《しんたん》までも伝える事でございましょう。」と、素知《そし》らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我《が》を御折りになったと見えて、苦《にが》い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
 こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守《おまも》りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨ぎすました焼刃《やきば》の※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《にお》いを嗅ぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまた何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心から御代替《ごだいがわ》りがしたと云う気が、――それも御屋形《おやかた》の中ばかりでなく、一天下《いってんか》にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌《あわただ》しい気が致したのでございます。

        五

 でございますから若殿様が、御家督を御取りになったその日の内から、御屋形《おやかた》の中へはどこからともなく、今までにない長閑《のどか》な景色《けしき》が、春風《しゅんぷう》のように吹きこんで参りました。歌合《うたあわ》せ、花合せ、あるいは艶書合《えんしょあわ》せなどが、以前にも増して度々御催しになられたのは、申すまでもございますまい。それからまた、女房たちを始め、侍どもの風俗が、まるで昔の絵巻から抜け出して来たように、みやびやかになったのも、元よりの事でございます。が、殊に以前と変ったのは、御屋形の
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