ころりと死んでしまいました。それだけならばまだ女も、諦《あきら》めようがあったのでしょうが、どうしても思い切れない事には、せっかく生まれた子供までが、夫の百《ひゃっ》ヶ日《にち》も明けない内に、突然|疫痢《えきり》で歿《な》くなった事です。女はその当座昼も夜も気違いのように泣き続けました。いや、当座ばかりじゃありません。それ以来かれこれ半年《はんとし》ばかりは、ほとんど放心同様な月日さえ送らなければならなかったのです。
「その悲しみが薄らいだ時、まず女の心に浮んだのは、捨てた長男に会う事です。「もしあの子が達者だったら、どんなに苦しい事があっても、手もとへ引き取って養育したい。」――そう思うと矢も楯《たて》もたまらないような気がしたのでしょう。女はすぐさま汽車に乗って、懐しい東京へ着くが早いか、懐しい信行寺《しんぎょうじ》の門前へやって来ました。それがまたちょうど十六日の説教日の午前だったのです。
「女は早速|庫裡《くり》へ行って、誰かに子供の消息《しょうそく》を尋ねたいと思いました。しかし説教がすまない内は、勿論和尚にも会われますまい。そこで女はいら立たしいながらも、本堂一ぱいにつめかけた大勢の善男善女《ぜんなんぜんにょ》に交《まじ》って、日錚和尚《にっそうおしょう》の説教に上《うわ》の空《そら》の耳を貸していました。――と云うよりも実際は、その説教が終るのを待っていたのに過ぎないのです。
「所が和尚はその日もまた、蓮華夫人《れんげふじん》が五百人の子とめぐり遇った話を引いて、親子の恩愛が尊《たっと》い事を親切に説いて聞かせました。蓮華夫人が五百の卵を生む。その卵が川に流されて、隣国の王に育てられる。卵から生れた五百人の力士は、母とも知らない蓮華夫人の城を攻めに向って来る。蓮華夫人はそれを聞くと、城の上の楼《たかどの》に登って、「私《わたし》はお前たち五百人の母だ。その証拠はここにある。」と云う。そうして乳を出しながら、美しい手に絞《しぼ》って見せる。乳は五百|条《すじ》の泉のように、高い楼上の夫人の胸から、五百人の力士の口へ一人も洩《も》れず注がれる。――そう云う天竺《てんじく》の寓意譚《ぐういたん》は、聞くともなく説教を聞いていた、この不幸な女の心に異常な感動を与えました。だからこそ女は説教がすむと、眼に涙をためたまま、廊下《ろうか》伝いに本堂から、すぐに庫裡
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