るように――と云って心の激動は、体中《からだじゅう》に露《あら》われているのですが――今日《こんにち》までの養育の礼を一々|叮嚀《ていねい》に述べ出すのです。
「それがややしばらく続いた後《のち》、和尚は朱骨《しゅぼね》の中啓《ちゅうけい》を挙げて、女の言葉を遮《さえぎ》りながら、まずこの子を捨てた訳を話して聞かすように促しました。すると女は不相変《あいかわらず》畳へ眼を落したまま、こう云う話を始めたそうです――
「ちょうど今から五年以前、女の夫は浅草田原町《あさくさたわらまち》に米屋の店を開いていましたが、株に手を出したばっかりに、とうとう家産を蕩尽《とうじん》して、夜逃げ同様|横浜《よこはま》へ落ちて行く事になりました。が、こうなると足手まといなのは、生まれたばかりの男の子です。しかも生憎《あいにく》女には乳がまるでなかったものですから、いよいよ東京を立ち退《の》こうと云う晩、夫婦は信行寺の門前へ、泣く泣くその赤子を捨てて行きました。
「それからわずかの知るべを便りに、汽車にも乗らず横浜へ行くと、夫はある運送屋へ奉公をし、女はある糸屋の下女になって、二年ばかり二人とも一生懸命に働いたそうです。その内に運が向いて来たのか、三年目の夏には運送屋の主人が、夫の正直に働くのを見こんで、その頃ようやく開け出した本牧辺《ほんもくへん》の表通りへ、小さな支店を出させてくれました。同時に女も奉公をやめて、夫と一しょになった事は元より云うまでもありますまい。
「支店は相当に繁昌《はんじょう》しました。その上また年が変ると、今度も丈夫そうな男の子が、夫婦の間《あいだ》に生まれました。勿論悲惨な捨子の記憶は、この間も夫婦の心の底に、蟠《わだかま》っていたのに違いありません。殊に女は赤子の口へ乏しい乳を注ぐ度に、必ず東京を立ち退《の》いた晩がはっきりと思い出されたそうです。しかし店は忙《いそが》しい。子供も日に増し大きくなる。銀行にも多少は預金が出来た。――と云うような始末でしたから、ともかくも夫婦は久しぶりに、幸福な家庭の生活を送る事だけは出来たのです。
「が、そう云う幸運が続いたのも、長い間の事じゃありません。やっと笑う事もあるようになったと思うと、二十七年の春|※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》、夫はチブスに罹《かか》ったなり、一週間とは床《とこ》につかず、
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