した所が、容易な事じゃありません。守《も》りをするのから牛乳の世話まで、和尚自身が看経《かんきん》の暇には、面倒を見ると云う始末なのです。何でも一度なぞは勇之助が、風か何か引いていた時、折悪く河岸の西辰《にしたつ》と云う大檀家《おおだんか》の法事があったそうですが、日錚和尚は法衣《ころも》の胸に、熱の高い子供を抱《だ》いたまま、水晶《すいしょう》の念珠《ねんじゅ》を片手にかけて、いつもの通り平然と、読経《どきょう》をすませたとか云う事でした。
「しかしその間《ま》も出来る事なら、生みの親に会わせてやりたいと云うのが、豪傑《ごうけつ》じみていても情《じょう》に脆《もろ》い日錚和尚の腹だったのでしょう。和尚は説教の座へ登る事があると、――今でも行って御覧になれば、信行寺の前の柱には「説教、毎月十六日」と云う、古い札《ふだ》が下《さが》っていますが、――時々和漢の故事を引いて、親子の恩愛を忘れぬ事が、即ち仏恩をも報ずる所以《ゆえん》だ、と懇《ねんごろ》に話して聞かせたそうです。が、説教日は度々めぐって来ても、誰一人進んで捨児の親だと名乗って出るものは見当りません。――いや勇之助が三歳の時、たった一遍、親だと云う白粉焼《おしろいや》けのした女が、尋ねて来た事がありました。しかしこれは捨児を種に、悪事でもたくらむつもりだったのでしょう。よくよく問い質《ただ》して見ると、疑わしい事ばかりでしたから、癇癖《かんぺき》の強い日錚和尚は、ほとんど腕力を振わないばかりに、さんざん毒舌を加えた揚句《あげく》、即座に追い払ってしまいました。
「すると明治二十七年の冬、世間は日清戦争の噂に湧き返っている時でしたが、やはり十六日の説教日に、和尚が庫裡《くり》から帰って来ると、品《ひん》の好《い》い三十四五の女が、しとやかに後《あと》を追って来ました。庫裡には釜をかけた囲炉裡《いろり》の側に、勇之助が蜜柑《みかん》を剥《む》いている。――その姿を一目見るが早いか、女は何の取付《とっつ》きもなく、和尚の前へ手をついて、震える声を抑えながら、「私《わたし》はこの子の母親でございますが、」と、思い切ったように云ったそうです。これにはさすがの日錚和尚も、しばらくは呆気《あっけ》にとられたまま、挨拶《あいさつ》の言葉さえ出ませんでした。が、女は和尚に頓着なく、じっと畳を見つめながら、ほとんど暗誦でもしてい
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