の中を歩き出した。しかしモオルと云う言葉だけは妙に気になってならなかった。
「モオル――Mole……」
モオルは※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐらもち》と云う英語だった。この聯想《れんそう》も僕には愉快ではなかった。が、僕は二三秒の後、Mole を la mort に綴り直した。ラ・モオルは、――死と云う仏蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姉の夫に迫っていたように僕にも迫っているらしかった。けれども僕は不安の中にも何か可笑《おか》しさを感じていた。のみならずいつか微笑していた。この可笑しさは何の為に起るか?――それは僕自身にもわからなかった。僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向い合った。僕の影も勿論《もちろん》微笑していた。僕はこの影を見つめているうちに第二の僕のことを思い出した。第二の僕、――独逸人の所謂《いわゆる》 Doppel gaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかった。しかし亜米利加の映画俳優になったK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。(僕は突然K君の夫人に「先達《せんだって》はつい御挨拶もしませんで」と言
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