避難したのは五分もたたない前のことだった。しかしこのカッフェは短時間の間にすっかり容子《ようす》を改めていた。就中《なかんずく》僕を不快にしたのはマホガニイまがいの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保っていないことだった。僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》このカッフェを出ようとした。
「もし、もし、二十銭頂きますが、……」
 僕の投げ出したのは銅貨だった。
 僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いているうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思い出した。それは或郊外にある僕の養父母の家ではない、唯僕を中心にした家族の為に借りた家だった。僕はかれこれ十年|前《ぜん》にもこう云う家に暮らしていた。しかし或事情の為に軽率にも父母と同居し出した。同時に又奴隷に、暴君に、力のない利己主義者に変り出した。……
 前のホテルに帰ったのはもうかれこれ十時だった。ずっと長い途《みち》を歩いて来た僕は僕の部屋へ帰る力を失い、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。それから僕の計画し
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