た。蛆はかう云ふ僕の記憶に忽《たちま》ちはつきり浮かび出した。
 僕は戸をあけて廊下へ出、どこと云ふことなしに歩いて行つた。するとロツビイへ出る隅に緑いろの笠をかけた、背の高いスタンドの電燈が一つ硝子戸に鮮《あざや》かに映つてゐた。それは何か僕の心に平和な感じを与へるものだつた。僕はその前の椅子に坐り、いろいろのことを考へてゐた。が、そこにも五分とは坐つてゐる訣《わけ》に行かなかつた。レエン・コオトは今度も亦僕の横にあつた長椅子の背中に如何にもだらりと脱ぎかけてあつた。
「しかも今は寒中だと云ふのに。」
 僕はこんなことを考へながら、もう一度廊下を引き返して行つた。廊下の隅の給仕だまりには一人も給仕は見えなかつた。しかし彼等の話し声はちよつと僕の耳をかすめて行つた。それは何とか言はれたのに答へた All right と云ふ英語だつた。「オオル・ライト」?――僕はいつかこの対話の意味を正確に掴《つか》まうとあせつてゐた。「オオル・ライト」?「オオル・ライト」? 何が一体オオル・ライトなのであらう?
 僕の部屋は勿論ひつそりしてゐた。が、戸をあけてはひることは妙に僕には無気味だつた。僕はち
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