よつとためらつた後、思ひ切つて部屋の中へはひつて行つた。それから鏡を見ないやうにし、机の前の椅子に腰をおろした。椅子は蜥蜴《とかげ》の皮に近い、青いマロツク皮の安楽椅子だつた。僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、或短篇を続けようとした。けれどもインクをつけたペンはいつまでたつても動かなかつた。のみならずやつと動いたと思ふと、同じ言葉ばかり書きつづけてゐた。All right……All right…… All right, sir……All right……
そこへ突然鳴り出したのはベツドの側《わき》にある電話だつた。僕は驚いて立ち上り、受話器を耳へやつて返事をした。
「どなた?」
「あたしです。あたし……」
相手は僕の姉の娘だつた。
「何だい? どうかしたのかい?」
「ええ、あの大へんなことが起つたんです。ですから、……大へんなことが起つたもんですから、今叔母さんにも電話をかけたんです。」
「大へんなこと?」
「ええ、ですからすぐに来て下さい。すぐにですよ。」
電話はそれぎり切れてしまつた。僕はもとのやうに受話器をかけ、反射的にべルの鈕《ボタン》を押した。しかし僕の手の震へてゐることは僕
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