のは或会社にゐるT君だつた。僕等は電車を待つてゐる間に不景気のことなどを話し合つた。T君は勿論僕などよりもかう云ふ問題に通じてゐた。が、逞《たくま》しい彼の指には余り不景気には縁のない土耳古石《トルコいし》の指環も嵌《は》まつてゐた。
「大したものを嵌めてゐるね」
「これか? これはハルピンへ商売に行つてゐた友だちの指環を買はされたんだよ。そいつも今は往生してゐる。コオペラテイヴと取引きが出来なくなつたものだから。」
 僕等の乗つた省線電車は幸ひにも汽車ほどこんでゐなかつた。僕等は並んで腰をおろし、いろいろのことを話してゐた。T君はついこの春に巴里《パリ》にある勤め先から東京へ帰つたばかりだつた。従つて僕等の間には巴里の話も出勝ちだつた。カイヨオ夫人の話、蟹《かに》料理の話、御外遊中の或殿下の話、……
「仏蘭西《フランス》は存外困つてはゐないよ。唯元来仏蘭西人と云ふやつは税を出したがらない国民だから、内閣はいつも倒れるがね。……」
「だつてフランは暴落するしさ。」
「それは新聞を読んでゐればね。しかし向うにゐて見給へ。新聞紙上の日本なるものはのべつに大地震や大洪水があるから。」
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