とレエン・コオトを着た男が一人僕等の向うへ来て腰をおろした。僕はちよつと無気味になり、何か前に聞いた幽霊の話をT君に話したい心もちを感じた。が、T君はその前に杖の柄《え》をくるりと左へ向け、顔は前を向いたまま、小声に僕に話しかけた。
「あすこに女が一人ゐるだらう? 鼠色の毛糸のシヨオルをした、……」
「あの西洋髪に結《ゆ》つた女か?」
「うん、風呂敷包みを抱へてゐる女さ。あいつはこの夏は軽井沢にゐたよ。ちよつと洒落れた洋装などをしてね。」
しかし彼女は誰の目にも見すぼらしいなりをしてゐるのに違ひなかつた。僕はT君と話しながら、そつと彼女を眺めてゐた。彼女はどこか眉の間に気違ひらしい感じのする顔をしてゐた。しかもその又風呂敷包みの中から豹《へう》に似た海綿をはみ出させてゐた。
「軽井沢にゐた時には若い亜米利加《アメリカ》人と踊つたりしてゐたつけ。モダアン……何と云ふやつかね。」
レエン・コオトを着た男は僕のT君と別れる時にはいつかそこにゐなくなつてゐた。僕は省線電車の或停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、或ホテルへ歩いて行つた。往来の両側に立つてゐるのは大抵大きいビルデイングだつた。
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