向うには親子らしい男女が二人坐つてゐた。その息子は僕よりも若かつたものの、殆ど僕にそつくりだつた。のみならず彼等は恋人同志のやうに顔を近づけて話し合つてゐた。僕は彼等を見てゐるうちに少くとも息子は性的にも母親に慰めを与へてゐることを意識してゐるのに気づき出した。それは僕にも覚えのある親和力の一例に違ひなかつた。同時に又現世を地獄にする或意志の一例にも違ひなかつた。しかし、――僕は又苦しみに陥るのを恐れ、丁度珈琲の来たのを幸ひ、「メリメエの書簡集」を読みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のやうに鋭いアフオリズムを閃《ひらめ》かせてゐた。それ等のアフオリズムは僕の気もちをいつか鉄のやうに巌畳《がんでふ》にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱点の一つだつた。)僕は一杯の珈琲を飲み了つた後、「何でも来い」と云ふ気になり、さつさとこのカツフエを後ろにして行つた。
 僕は往来を歩きながら、いろいろの飾り窓を覗いて行つた。或額縁屋の飾り窓はベエトオヴエンの肖像画を掲げてゐた。それは髪を逆立てた天才そのものらしい肖像画だつた。僕はこのベエトオヴエンを滑稽に感ぜずにはゐられなかつた。……
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