平中はわなわな震へる手に、ふはりと筐の上へかけた、香染《かうぞめ》の薄物を掲げて見た。筐は意外にも精巧を極めた、まだ真新しい蒔絵《まきゑ》である。
「この中に侍従の糞《まり》がある。同時におれの命もある。……」
平中は其処に佇んだ儘、ぢつと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、時鳥《ほととぎす》を描《か》いた筐が一つ、はつきり空中に浮き出してゐる。……
「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筐に懸つてゐる。この筐の蓋を取りさへすれば、――いや、それは考へものだぞ。侍従を忘れてしまふのが好いか、甲斐のない命を長らへるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとひ焦がれ死をするにもせよ、この筐の蓋だけは取らずに置かうか?……」
平中は窶《やつ》れた頬の上に、涙の痕を光らせながら、今更のやうに思ひ惑つた。しかし少時《しばらく》沈吟《ちんぎん》した後、急に眼を輝
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