うご》は御仏よりも、お前に身命を捧げるつもりだ。」
平中は侍従を引き寄せながら、かうその耳に囁《ささや》かうとした。が、いくら気は急《せ》いても、舌は上顋《うはあご》に引ついた儘、声らしいものは口へ出ない。その内に侍従の髪の匂や、妙に暖い肌の匂は、無遠慮に彼を包んで来る。――と思ふと彼の顔へは、かすかな侍従の息がかかつた。
一瞬間、――その一瞬間が過ぎてしまへば、彼等は必ず愛欲の嵐に、雨の音も、空焚きの匂も、本院の大臣《おとど》も、女《め》の童《わらは》も忘却してしまつたに相違ない。しかしこの際《きは》どい刹那《せつな》に侍従は半ば身を起すと、平中の顔に顔を寄せながら、恥しさうな声を出した。
「お待ちなさいまし。まだあちらの障子には、懸金が下してございませんから、あれをかけて参ります。」
平中は唯|頷《うなづ》いた。侍従は二人の褥《しとね》の上に、匂の好い暖《ぬく》みを残した儘、そつと其処を立つて行つた。
「春雨、侍従、弥陀如来、雨宿り、雨だれ、侍従、侍従、……」
平中はちやんと眼を開《あ》いたなり、彼自身にも判然しない、いろいろな事を考へてゐる。すると向うのくら闇に、かちりと
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