しまふかも知れないな。ぢや逢はれると考へようか? それにしても勘定づくだから、やつぱりこちらの思ふやうには、――ああ、胸が痛んで来た。一そ何か侍従なぞとは、縁のない事を考へよう。大分どの局もひつそりしたな。聞えるのは雨の音ばかりだ。ぢや早速眼をつぶつて、雨の事でも考へるとしよう。春雨、五月雨、夕立、秋雨、……秋雨と云ふ言葉があるかしら? 秋の雨、冬の雨、雨だり、雨漏り、雨傘、雨乞ひ、雨竜《あまりよう》、雨蛙、雨革《あまがは》、雨宿り、……」
こんな事を思つてゐる内に、思ひがけない物の音が、平中の耳を驚かせた。いや、驚かせたばかりではない、この音を聞いた平中の顔は、突然|弥陀《みだ》の来迎《らいがう》を拝した、信心深い法師よりも、もつと歓喜に溢れてゐる。何故と云へば遣戸《やりど》の向うに、誰か懸け金を外《はづ》した音が、はつきり耳に響いたのである。
平中は遣戸を引いて見た。戸は彼の思つた通り、するりと閾《しきゐ》の上を辷《すべ》つた。その向うには不思議な程、空焚《そらだき》の匂が立ち罩《こ》めた、一面の闇が拡がつてゐる。平中は静かに戸をしめると、そろそろ膝で這ひながら、手探りに奥へ進
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