sやちしや》の語出づるに至る。野雉車とは仰《そも》何ぞ。北京《ペキン》上海《シヤンハイ》に出没する、無鑑札の朦朧車夫《もうろうしやふ》なり。(五月三十日)

     泥黎口業

 寿陵余子《じゆりようよし》雑誌「人間《にんげん》」の為に、骨董羹《こつとうかん》を書く事既に三回。東西|古今《ここん》の雑書を引いて、衒学《げんがく》の気焔を挙ぐる事、恰《あたか》もマクベス曲中の妖婆《えうば》の鍋《なべ》に類せんとす。知者は三千里外にその臭を避け、昧者《まいしや》は一弾|指間《しかん》にその毒に中《あた》る。思ふに是|泥黎《でいり》の口業《こうげふ》。羅貫中《らくわんちう》水滸伝《すゐこでん》を作つて、三生唖子《さんせいあし》を生むとせば、寿陵余子|亦《また》骨董羹を書いて、仰《そも》如何《いかん》の冥罰《みやうばつ》をか受けん。黙殺か。撲滅か。或は余子の小説集、一冊も市《いち》に売れざるか。若《し》かず、速《すみやか》に筆を投じて、酔中独り繍仏《しうぶつ》の前に逃禅《たうぜん》の閑を愛せんには。昨の非を悔い今《こん》の是《ぜ》を知る。何《なん》ぞ須臾《しゆゆ》も踟※[#「足へん+廚」、79−上−3]《ちちう》せん。抛下《はうか》す、吾家《ごか》の骨董羹。今日《こんにち》喫《きつ》し得て珍重《ちんちよう》ならば、明日《みやうにち》厠上《しじやう》に瑞光あらん。糞中の舎利《しやり》、大家《たいか》看《み》よ。(五月三十日)

     *   *   *

     天路歴程

 Pilgrim's Progress を天路歴程《てんろれきてい》と翻訳するのは清の同治八年(西暦千八百六十九年)上海華草書館にて出版せる漢訳の名を踏襲《たうしふ》せるにや。この書、篇中の人物風景を悉《ことごとく》支那風に描きたる銅版画の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画数葉あり。その入窄門図《にふさくもんづ》の如き、或は入美宮図の如き、長崎絵の紅毛人に及ばざれど、亦一種の風韻《ふうゐん》無きに非らず。文章も漢を以て洋を叙《じよ》するの所、読み来り読み去つて感興反つて尠《すくな》からざるを覚ゆ。殊にその英詩を翻訳したる、詩としては見るに堪へざらんも、別様の趣致あるは※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画と一なり。譬《たと》へば生命水の河の詩に「路旁生命水清流《ろばうのせいめいみづきよくながる》、天路行人喜暫留《てんろのかうじんよろこびしばらくとどまる》、百菓奇花供悦楽《ひやつくわきくわえつらくにきようす》、吾儕幸得此埔遊《わがさいさいはひにえたりこのほのいう》」と云ふが如し。この種の興味を云々するは恐らく傍人の嗤笑を買ふ所にならん。然れども思へ、獄中のオスカア・ワイルドが行往坐臥に侶としたるも、こちたき希臘語《ギリシヤご》の聖書なりしを。(一月二十一日)

     三馬

 二三子集り議して曰、今人の眼を以て古人の心を描く事、自然主義以後の文壇に最も目ざましき傾向なるべしと。一老人あり。傍より言を挾《はさ》みて曰、式亭三馬《しきていさんば》が大千世界楽屋探しは如何《いかん》と。二三子の言の出づる所を知らず、相顧みて唖然《あぜん》たるのみ。(一月二十七日)

     尾崎紅葉

 紅葉の歿後殆二十年。その「多情多恨」の如き、「伽羅枕《からまくら》」の如き、「二人女房」の如き、今日|猶《なほ》之を翻読するも宛然《えんぜん》たる一朶《いちだ》の鼈甲牡丹《べつかうぼたん》、光彩更に磨滅すべからざるが如し。人亡んで業|顕《あらは》るとは誠にこの人の謂《いひ》なるかな。思ふに前記の諸篇の如き、布局法あり、行筆本あり、変化至つて規矩《きく》を離れざる、能く久遠に垂《た》るべき所以《ゆゑん》ならん。予常に思ふ、芸術の境に未成品ある莫《な》しと。紅葉亦然らざらんや。(二月三日)

     誨淫の書

 金瓶梅《きんぺいばい》、肉蒲団《にくぶとん》は問はず、予が知れる支那小説中、誨淫の譏《そしり》あるものを列挙すれば、杏花天《きやうくわてん》、燈芯奇僧伝《たうしんきそうでん》、痴婆子伝《ちばしでん》、牡丹奇縁、如意君伝《によいくんでん》、桃花庵、品花宝鑑《ひんくわはうかん》、意外縁、殺子報、花影奇情伝、醒世第一奇書《せいせいだいいちきしよ》、歓喜奇観、春風得意奇縁、鴛鴦夢《えんあうむ》、野臾曝言《やゆばうげん》、淌牌黒幕《せうはいこくばく》等なるべし。聞く、夙《つと》に舶載せられしものは、既に日本語の翻案ありと。又聞く、近年この種の翻案を密に剞※[#「厥+りっとう」、第4水準2−3−30]《きけつ》に附せしものありと。若し這般《しやはん》の和訳艶情小説を一読過せんと欲するものは、請《こ》ふ、当代の
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