u《へだた》りたるべし。彼《かの》ゲエテの希臘《ギリシヤ》と雖も、トロイの戦《たたかひ》の勇士の口には一抹《いつまつ》ミユンヘンの麦酒《ビイル》の泡の未《いまだ》消えざるを如何《いか》にすべき。歎ずらくは想像にも亦《また》国籍の存する事を。(二月六日)
大雅
東海の画人多しとは云へ、九霞山樵《きうかさんせう》の如き大器又あるべしとも思はれず。されどその大雅《たいが》すら、年三十に及びし時、意の如く技《ぎ》の進まざるを憂ひて、教を祇南海《ぎなんかい》に請ひし事あり。血性《けつせい》大雅に過ぐるもの、何ぞ進歩の遅々たるに焦燥《せうそう》の念無きを得可けんや。唯、返へす返すも学ぶべきは、聖胎長養《せいたいちやうやう》の機を誤らざりし九霞山樵の工夫《くふう》なるべし。(二月七日)
妖婆
英語に witch と唱ふるもの、大むねは妖婆《えうば》と翻訳すれど、年少美貌のウイツチ亦《また》決して少しとは云ふべからず。メレジユウコウスキイが「先覚者」ダンヌンツイオが「ジヨリオの娘」或は遙に品《しな》下《さが》れどクロオフオオドが Witch of Prague など、顔|玉《たま》の如きウイツチを描《ゑが》きしもの、尋ぬれば猶多かるべし。されど白髪蒼顔のウイツチの如く、活躍せる性格少きは否《いな》み難き事実ならんか。スコツト、ホオソオンが昔は問はず、近代の英米文学中、妖婆を描きて出色なるものは、キツプリングが The Courting of Dinah Shadd の如き、或は随一とも称すべき乎《か》。ハアデイが小説にも、妖婆に材を取る事珍らしからず。名高き Under the Greenwood の中なる、エリザベス・エンダアフイルドもこの類なり。日本にては山姥《やまうば》鬼婆《おにばば》共に純然たるウイツチならず。支那にてはかの夜譚随録《やたんずゐろく》載する所の夜星子《やせいし》なるもの、略《ほぼ》妖婆たるに近かるべし。(二月八日)
柔術
西人《せいじん》は日本と云ふ毎《ごと》に、必《かならず》柔術を想起すと聞けり。さればにやアナトオル・フランスが「天使の反逆」の一章にも、日本より巴里《パリ》に[#「巴里《パリ》に」は底本では「里巴《パリ》に」]来れる天使|仏蘭西《フランス》の巡査を掻《か》い掴《つか》んで物も見事に投げ捨つるく
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