黒衣聖母
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)呻《うめ》き泣きて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)存外|真面目《まじめ》な表情を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]
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――この涙の谷に呻《うめ》き泣きて、御身《おんみ》に願いをかけ奉る。……御身の憐みの御眼《おんめ》をわれらに廻《めぐ》らせ給え。……深く御柔軟《ごじゅうなん》、深く御哀憐、すぐれて甘《うまし》くまします「びるぜん、さんたまりや」様――
[#地から1字上げ]――和訳「けれんど」――
[#ここで字下げ終わり]

「どうです、これは。」
 田代《たしろ》君はこう云いながら、一体の麻利耶観音《マリヤかんのん》を卓子《テーブル》の上へ載せて見せた。
 麻利耶観音と称するのは、切支丹宗門《きりしたんしゅうもん》禁制時代の天主教徒《てんしゅきょうと》が、屡《しばしば》聖母《せいぼ》麻利耶の代りに礼拝《らいはい》した、多くは白磁《はくじ》の観音像である。が、今田代君が見せてくれたのは、その麻利耶観音の中でも、博物館の陳列室や世間普通の蒐収家《しゅうしゅうか》のキャビネットにあるようなものではない。第一これは顔を除いて、他はことごとく黒檀《こくたん》を刻んだ、一尺ばかりの立像である。のみならず頸《くび》のまわりへ懸けた十字架形《じゅうじかがた》の瓔珞《ようらく》も、金と青貝とを象嵌《ぞうがん》した、極めて精巧な細工《さいく》らしい。その上顔は美しい牙彫《げぼり》で、しかも唇には珊瑚《さんご》のような一点の朱まで加えてある。……
 私は黙って腕を組んだまま、しばらくはこの黒衣聖母《こくいせいぼ》の美しい顔を眺めていた。が、眺めている内に、何か怪しい表情が、象牙《ぞうげ》の顔のどこだかに、漂《ただよ》っているような心もちがした。いや、怪しいと云ったのでは物足りない。私にはその顔全体が、ある悪意を帯びた嘲笑を漲《みなぎ》らしているような気さえしたのである。
「どうです、これは。」
 田代君はあらゆる蒐集家に共通な矜誇《ほこり》の微笑を浮べながら、卓子《テーブル》の上の麻利耶観音と私の顔とを見比べて、もう一度こう繰返した。
「これは珍品ですね。が、何だかこの顔は、無気味
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