《ぶきみ》な所があるようじゃありませんか。」
「円満具足《えんまんぐそく》の相好《そうごう》とは行きませんかな。そう云えばこの麻利耶観音には、妙な伝説が附随しているのです。」
「妙な伝説?」
 私は眼を麻利耶観音から、思わず田代君の顔に移した。田代君は存外|真面目《まじめ》な表情を浮べながら、ちょいとその麻利耶観音を卓子《テーブル》の上から取り上げたが、すぐにまた元の位置に戻して、
「ええ、これは禍《わざわい》を転じて福《さいわい》とする代りに、福を転じて禍とする、縁起《えんぎ》の悪い聖母だと云う事ですよ。」
「まさか。」
「ところが実際そう云う事実が、持ち主にあったと云うのです。」
 田代君は椅子《いす》に腰を下すと、ほとんど物思わしげなとも形容すべき、陰鬱な眼つきになりながら、私にも卓子《テーブル》の向うの椅子へかけろと云う手真似をして見せた。
「ほんとうですか。」
 私は椅子へかけると同時に、我知らず怪しい声を出した。田代君は私より一二年|前《ぜん》に大学を卒業した、秀才の聞えの高い法学士である。且《かつ》また私の知っている限り、所謂《いわゆる》超自然的現象には寸毫《すんごう》の信用も置いていない、教養に富んだ新思想家である、その田代君がこんな事を云い出す以上、まさかその妙な伝説と云うのも、荒唐無稽《こうとうむけい》な怪談ではあるまい。――
「ほんとうですか。」
 私が再《ふたたび》こう念を押すと、田代君は燐寸《マッチ》の火をおもむろにパイプへ移しながら、
「さあ、それはあなた自身の御判断に任せるよりほかはありますまい。が、ともかくもこの麻利耶《マリヤ》観音には、気味の悪い因縁《いんねん》があるのだそうです。御退屈でなければ、御話しますが。――」

 この麻利耶観音は、私の手にはいる以前、新潟県のある町の稲見《いなみ》と云う素封家《そほうか》にあったのです。勿論|骨董《こっとう》としてあったのではなく、一家の繁栄を祈るべき宗門神《しゅうもんじん》としてあったのですが。
 その稲見の当主と云うのは、ちょうど私と同期の法学士で、これが会社にも関係すれば、銀行にも手を出していると云う、まあ仲々の事業家なのです。そんな関係上、私も一二度稲見のために、ある便宜を計ってやった事がありました。その礼心《れいごころ》だったのでしょう。稲見はある年上京した序《ついで》に、この家
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