ようす》を見た祖母の喜びは、仲々口には尽せません。何でも稲見の母親は、その時祖母が笑いながら、涙をこぼしていた顔が、未《いまだ》に忘れられないとか云っているそうです。その内に祖母は病気の孫がすやすや眠り出したのを見て、自分も連夜の看病疲れをしばらく休める心算《つもり》だったのでしょう。病間《びょうま》の隣へ床《とこ》をとらせて、珍らしくそこへ横になりました。
 その時お栄は御弾《おはじ》きをしながら、祖母の枕もとに坐っていましたが、隠居は精根《せいこん》も尽きるほど、疲れ果てていたと見えて、まるで死んだ人のように、すぐに寝入ってしまったとか云う事です。ところがかれこれ一時間ばかりすると、茂作の介抱をしていた年輩の女中が、そっと次の間の襖《ふすま》を開けて、「御嬢様ちょいと御隠居様を御起し下さいまし。」と、慌《あわ》てたような声で云いました。そこでお栄は子供の事ですから、早速祖母の側へ行って、「御婆さん、御婆さん。」と二三度|掻巻《かいま》きの袖を引いたそうです。が、どうしたのかふだんは眼慧《めざと》い祖母が、今日に限っていくら呼んでも返事をする気色《けしき》さえ見えません。その内に女中が不審《ふしん》そうに、病間からこちらへはいって来ましたが、これは祖母の顔を見ると、気でも違ったかと思うほど、いきなり隠居の掻巻きに縋《すが》りついて、「御隠居様、御隠居様。」と、必死の涙声を挙げ始めました。けれども祖母は眼のまわりにかすかな紫の色を止《とど》めたまま、やはり身動きもせずに眠っています。と間《ま》もなくもう一人の女中が、慌《あわただ》しく襖を開けたと思うとこれも、色を失った顔を見せて、「御隠居様、――坊ちゃんが――御隠居様。」と、震《ふる》え声で呼び立てました。勿論この女中の「坊ちゃんが――」は、お栄の耳にも明かに、茂作の容態《ようだい》の変った事を知らせる力があったのです。が、祖母は依然として、今は枕もとに泣き伏した女中の声も聞えないように、じっと眼をつぶっているのでした。……
 茂作もそれから十分ばかりの内に、とうとう息を引き取りました。麻利耶《マリヤ》観音は約束通り、祖母の命のある間は、茂作を殺さずに置いたのです。

 田代君はこう話し終ると、また陰鬱な眼を挙げて、じっと私の顔を眺めた。
「どうです。あなたにはこの伝説が、ほんとうにあったとは思われませんか。」
 
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