の泣くのにも頓着せず、その麻利耶観音の御宮の前に坐りながら、恭《うやうや》しく額に十字を切って、何かお栄にわからない御祈祷《ごきとう》をあげ始めたそうです。
 それがおよそ十分あまりも続いてから、祖母は静に孫娘を抱き起すと、怖がるのを頻《しき》りになだめなだめ、自分の隣に坐らせました。そうして今度はお栄にもわかるように、この黒檀《こくたん》の麻利耶観音へ、こんな願《がん》をかけ始めました。
「童貞聖麻利耶様《ビルゼンサンタマリヤさま》、私が天にも地にも、杖柱《つえはしら》と頼んで居りますのは、当年八歳の孫の茂作と、ここにつれて参りました姉のお栄ばかりでございます。お栄もまだ御覧の通り、婿《むこ》をとるほどの年でもございません。もし唯今茂作の身に万一の事でもございましたら、稲見の家は明日《あす》が日にも世嗣《よつ》ぎが絶えてしまうのでございます。そのような不祥がございませんように、どうか茂作の一命を御守りなすって下さいまし。それも私風情《わたしふぜい》の信心には及ばない事でございましたら、せめては私の息のございます限り、茂作の命を御助け下さいまし。私もとる年でございますし、霊魂《アニマ》を天主《デウス》に御捧げ申すのも、長い事ではございますまい。しかし、それまでには孫のお栄も、不慮の災難でもございませなんだら、大方《おおかた》年頃になるでございましょう。何卒《なにとぞ》私が目をつぶりますまででよろしゅうございますから、死の天使《アンジョ》の御剣《おんつるぎ》が茂作の体に触れませんよう、御慈悲を御垂れ下さいまし。」
 祖母は切髪《きりがみ》の頭《かしら》を下げて、熱心にこう祈りました。するとその言葉が終った時、恐る恐る顔を擡《もた》げたお栄の眼には、気のせいか麻利耶観音が微笑したように見えたと云うのです。お栄は勿論小さな声をあげて、また祖母の膝に縋りつきました。が、祖母は反《かえ》って満足そうに、孫娘の背をさすりながら、
「さあ、もうあちらへ行きましょう。麻利耶様は難有《ありがた》い事に、この御婆さんのお祈りを御聞き入れになって下すったからね。」
と、何度も繰り返して云ったそうです。
 さて明くる日になって見ると、成程《なるほど》祖母の願がかなったか、茂作は昨日《きのう》よりも熱が下って、今まではまるで夢中だったのが、次第に正気《しょうき》さえついて来ました。この容子《
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