んなことを言つたかは僕自身にもわからなかつた。すると女中は頓狂《とんきやう》な調子で「あら、ほんたうにたかつてゐる」と言つた。
×
僕はバタの罐《くわん》をあけながら、軽井沢《かるゐざは》の夏を思ひ出した。その拍子《ひやうし》に頸《くび》すぢがちくりとした。僕は驚いてふり返つた。すると軽井沢に沢山《たくさん》ゐる馬蝿《うまばへ》が一匹飛んで行つた。それもこのあたりの馬蝿ではない。丁度《ちようど》軽井沢の馬蝿のやうに緑色の目をした馬蝿だつた。
×
僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴《かみなり》は何《なん》ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠《ほ》え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団《ふとん》をかぶるか、妻のゐる次の間《ま》へ避難してしまふ。
×
僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札《ふだ》を出した家を見つけた。が、二三日たつた後《のち》、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング