鵠沼雑記
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鵠沼《くげぬま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)以上|東屋《あづまや》にゐるうち
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
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僕は鵠沼《くげぬま》の東屋《あづまや》の二階にぢつと仰向《あふむ》けに寝ころんでゐた。その又僕の枕もとには妻《つま》と伯母《をば》とが差向ひに庭の向うの海を見てゐた。僕は目をつぶつたまま、「今に雨がふるぞ」と言つた。妻や伯母《をば》はとり合はなかつた。殊に妻は「このお天気に」と言つた。しかし二分とたたないうちに珍らしい大雨《たいう》になつてしまつた。
×
僕は全然人かげのない松の中の路《みち》を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸《かうぐわん》を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角《かど》へ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。
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僕は路ばたの砂の中に雨蛙《あまがへる》が一匹もがいてゐるのを見つけた。その時あいつは自動車が来たら、どうするつもりだらうと考へた。しかしそこは自動車などのはひる筈のない小みちだつた。しかし僕は不安になり、路ばたに茂つた草の中へ杖の先で雨蛙をはね飛ばした。
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僕は風向《かざむ》きに従つて一様《いちやう》に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪《ゆが》んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪《ゆが》んでゐた。これは不気味《ぶきみ》でならなかつた。
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僕は風呂《ふろ》へはひりに行つた。彼是《かれこれ》午後の十一時だつた。風呂場の流しには青年が一人《ひとり》、手拭《てぬぐひ》を使はずに顔を洗つてゐた。それは毛を抜いた※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》のやうに痩《や》せ衰へた青年だつた。僕は急に不快になり、僕の部屋へ引返した。すると僕の部屋の中に腹巻が一つぬいであつた。僕は驚いて帯をといて見たら、やはり僕の腹巻だつた。(以上|東屋《あづまや》にゐるうち)
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