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 僕は夢を見てゐるうちはふだんの通りの僕である。ゆうべ(七月十九日)は佐佐木茂索《ささきもさく》君と馬車に乗つて歩きながら、麦藁帽《むぎわらばう》をかぶつた馭者《ぎよしや》に北京《ペキン》の物価などを尋ねてゐた。しかしはつきり目がさめてから二十分ばかりたつうちにいつか憂鬱になつてしまふ。唯灰色の天幕《テント》の裂《さ》け目から明るい風景が見えるやうに時々ふだんの心もちになる。どうも僕は頭からじりじり参つて来るのらしい。

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 僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供に遇《あ》つた。子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。その恐怖は子供とすれ違つた後《のち》も、暫《しばら》くの間《あひだ》はつづいてゐた。

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 僕はぼんやり煙草を吸ひながら、不快なことばかり考へてゐた。僕の前の次の間《ま》にはここへ来て雇《やと》つた女中が一人《ひとり》、こちらへは背中を見せたまま、おむつを畳んでゐるらしかつた。僕はふと「そのおむつには毛虫がたかつてゐるぞ」と言つた。どうしてそんなことを言つたかは僕自身にもわからなかつた。すると女中は頓狂《とんきやう》な調子で「あら、ほんたうにたかつてゐる」と言つた。

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 僕はバタの罐《くわん》をあけながら、軽井沢《かるゐざは》の夏を思ひ出した。その拍子《ひやうし》に頸《くび》すぢがちくりとした。僕は驚いてふり返つた。すると軽井沢に沢山《たくさん》ゐる馬蝿《うまばへ》が一匹飛んで行つた。それもこのあたりの馬蝿ではない。丁度《ちようど》軽井沢の馬蝿のやうに緑色の目をした馬蝿だつた。

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 僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴《かみなり》は何《なん》ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠《ほ》え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団《ふとん》をかぶるか、妻のゐる次の間《ま》へ避難してしまふ。

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 僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札《ふだ》を出した家を見つけた。が、二三日たつた後《のち》、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕
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