れている、さまざまの物《もの》の怪《け》を一時《いちどき》に放ったようなものだった。私が夫の身代りになると云う事は、果して夫を愛しているからだろうか。いや、いや、私はそう云う都合《つごう》の好い口実の後《うしろ》で、あの人に体を任かした私の罪の償《つぐの》いをしようと云う気を持っていた。自害をする勇気のない私は。少しでも世間の眼に私自身を善く見せたい、さもしい心もちがある私は。けれどもそれはまだ大目にも見られよう。私はもっと卑《いや》しかった。もっと、もっと醜かった。夫の身代りに立つと云う名の下《もと》で、私はあの人の憎しみに、あの人の蔑《さげす》みに、そうしてあの人が私を弄《もてあそ》んだ、その邪《よこしま》な情欲に、仇《かたき》を取ろうとしていたではないか。それが証拠には、あの人の顔を見ると、あの月の光のような、不思議な生々《いきいき》しさも消えてしまって、ただ、悲しい心もちばかりが、たちまち私の心を凍らせてしまう。私は夫のために死ぬのではない。私は私のために死のうとする。私の心を傷《きずつ》けられた口惜《くや》しさと、私の体を汚された恨めしさと、その二つのために死のうとする。ああ
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