た。けれども、それは何も、操《みさお》を破られたと云う事だけが悲しかった訳ではない。操を破られながら、その上にも卑《いやし》められていると云う事が、丁度|癩《らい》を病んだ犬のように、憎まれながらも虐《さいな》まれていると云う事が、何よりも私には苦しかった。そうしてそれから私は一体何をしていたのであろう。今になって考えると、それも遠い昔の記憶のように朧《おぼろ》げにしかわからない。ただ、すすり上げて泣いている間に、あの人の口髭《くちひげ》が私の耳にさわったと思うと、熱い息と一しょに低い声で、「渡《わたる》を殺そうではないか。」と云う語《ことば》が、囁《ささや》かれたのを覚えている。私はそれを聞くと同時に、未《いまだ》に自分にもわからない、不思議に生々《いきいき》した心もちになった。生々した? もし月の光が明いと云うのなら、それも生々した心もちであろう。が、それはどこまでも月の光の明さとは違う、生々した心もちだった。しかし私は、やはりこの恐しい語《ことば》のために、慰められたのではなかったろうか。ああ、私は、女と云うものは、自分の夫を殺してまでも、猶人に愛されるのが嬉しく感ぜられるものな
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