口惜《くや》しかった。恐しかった。悲しかった。子供の時に乳母《うば》に抱かれて、月蝕《げっしょく》を見た気味の悪さも、あの時の心もちに比べれば、どのくらいましだかわからない。私の持っていたさまざまな夢は、一度にどこかへ消えてしまう。後にはただ、雨のふる明け方のような寂しさが、じっと私の身のまわりを取り囲んでいるばかり――私はその寂しさに震《ふる》えながら、死んだも同様なこの体を、とうとうあの人に任せてしまった。愛してもいないあの人に、私を憎んでいる、私を蔑《さげす》んでいる、色好みなあの人に。――私は私の醜さを見せつけられた、その寂しさに堪えなかったのであろうか。そうしてあの人の胸に顔を当てる、熱に浮かされたような一瞬間にすべてを欺こうとしたのであろうか。さもなければまた、あの人同様、私もただ汚らわしい心もちに動かされていたのであろうか。そう思っただけでも、私は恥しい。恥しい。恥しい。殊にあの人の腕を離れて、また自由な体に帰った時、どんなに私は私自身を浅間《あさま》しく思った事であろう。
 私は腹立たしさと寂しさとで、いくら泣くまいと思っても、止《と》め度《ど》なく涙が溢《あふ》れて来
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