湖南の扇
芥川龍之介
--
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)広東《かんとん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当時|長江《ちょうこう》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]江丸《げんこうまる》
--
広東《かんとん》に生れた孫逸仙等《そんいつせんら》を除けば、目ぼしい支那の革命家は、――黄興《こうこう》、蔡鍔《さいがく》、宋教仁《そうきょうじん》等はいずれも湖南《こなん》に生れている。これは勿論《もちろん》曾国藩《そうこくはん》や張之洞《ちょうしどう》の感化にもよったのであろう。しかしその感化を説明する為にはやはり湖南の民自身の負けぬ気の強いことも考えなければならぬ。僕は湖南へ旅行した時、偶然ちょっと小説じみた下《しも》の小事件に遭遇した。この小事件もことによると、情熱に富んだ湖南の民の面目を示すことになるのかも知れない。…………
* * * * *
大正十年五月十六日の午後四時頃、僕の乗っていた※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]江丸《げんこうまる》は長沙《ちょうさ》の桟橋へ横着けになった。
僕はその何分か前に甲板の欄干《らんかん》へ凭《よ》りかかったまま、だんだん左舷《さげん》へ迫って来る湖南の府城を眺めていた。高い曇天の山の前に白壁や瓦屋根《かわらやね》を積み上げた長沙は予想以上に見すぼらしかった。殊に狭苦しい埠頭《ふとう》のあたりは新しい赤煉瓦《あかれんが》の西洋家屋や葉柳《はやなぎ》なども見えるだけに殆《ほとん》ど飯田河岸《いいだがし》と変らなかった。僕は当時|長江《ちょうこう》に沿うた大抵の都会に幻滅していたから、長沙にも勿論豚の外に見るもののないことを覚悟していた。しかしこう言う見すぼらしさはやはり僕には失望に近い感情を与えたのに違いなかった。
※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]江丸は運命に従うようにじりじり桟橋へ近づいて行った。同時に又|蒼《あお》い湘江《しょうこう》の水もじりじり幅を縮めて行った。すると薄汚い支那人が一人、提籃《ていらん》か何かをぶら下げたなり、突然僕の目の下からひらりと桟橋へ飛び移った。それは実際人間よりも、蝗《いなご》に近い早業だった。が、あっと思ううちに今度は天秤捧《てんびんぼう》を横たえたのが見事に又水を跳《おど》り越えた。続いて二人、五人、八人、――見る見る僕の目の下はのべつに桟橋へ飛び移る無数の支那人に埋《うず》まってしまった。と思うと船はいつの間にかもう赤煉瓦の西洋家屋や葉柳などの並んだ前にどっしりと横着けに聳《そび》えていた。
僕はやっと欄干を離れ、同じ「社」のBさんを物色し出した。長沙に六年もいるBさんはきょうも特に※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]江丸へ出迎いに来てくれる筈《はず》になっていた。が、Bさんらしい姿は容易に僕には見つからなかった。のみならず舷梯《げんてい》を上下するのは老若の支那人ばかりだった。彼等は互に押し合いへし合い、口々に何か騒いでいた。殊に一人の老紳士などは舷梯を下りざまにふり返りながら、後《うしろ》にいる苦力《クウリイ》を擲《なぐ》ったりしていた。それは長江を遡《さかのぼ》って来た僕には決して珍しい見ものではなかった。けれども亦格別見慣れたことを長江に感謝したい見ものでもなかった。
僕はだんだん苛立《いらだ》たしさを感じ、もう一度欄干によりかかりながら、やはり人波の去来する埠頭の前後を眺めまわした。そこには肝腎のBさんは勿論、日本人は一人も見当らなかった。しかし僕は桟橋の向うに、――枝のつまった葉柳の下に一人の支那美人を発見した。彼女は水色の夏衣裳《なついしょう》の胸にメダルか何かをぶら下げた、如何にも子供らしい女だった。僕の目は或はそれだけでも彼女に惹《ひ》かれたかも知れなかった。が、彼女はその上に高い甲板を見上げたまま、紅の濃い口もとに微笑を浮かべ、誰《たれ》かに合い図でもするように半開きの扇をかざしていた。………
「おい、君。」
僕は驚いてふり返った。僕の後ろにはいつの間にか鼠色《ねずみいろ》の大掛児《タアクアル》を着た支那人が一人、顔中に愛嬌《あいきょう》を漲《みなぎ》らせていた。僕はちょっとこの支那人の誰であるかがわからなかった。けれども忽《たちま》ち彼の顔に、――就中《なかんずく》彼の薄い眉毛《まゆげ》に旧友の一人を思い出した。
「やあ、君か。そうそう、君は湖南の産《うまれ》だったっけね。」
「うん、ここに開業している。」
譚永年《たんえいねん》は僕と同期に一高から東大の医科
次へ
全6ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング