へはいった留学生中の才人だった。
「きょうは誰かの出迎いかい?」
「うん、誰かの、――誰だと思う?」
「僕の出迎いじゃないだろう?」
譚はちょっと口をすぼめ、ひょっとこに近い笑い顔をした。
「ところが君の出迎いなんだよ。Bさんは生憎《あいにく》五六日前からマラリア熱に罹《かか》っている。」
「じゃBさんに頼まれたんだね?」
「頼まれないでも来るつもりだった。」
僕は彼の昔から愛想の好いのを思い出した。譚は僕等の寄宿舎生活中、誰にも悪感《あくかん》を与えたことはなかった。若《も》し又多少でも僕等の間に不評判になっていたとすれば、それはやはり同室だった菊池寛の言ったように余りに誰にもこれと言うほどの悪感を与えていないことだった。………
「だが君の厄介になるのは気の毒だな。僕は実は宿のこともBさんに任《ま》かせっきりになっているんだが、………」
「宿は日本人|倶楽部《くらぶ》に話してある。半月でも一月でも差支えない。」
「一月でも? 常談言っちゃいけない。僕は三晩泊めて貰えりゃ好いんだ。」
譚は驚いたと言うよりも急に愛嬌のない顔になった。
「たった三晩しか泊らないのか?」
「さあ、土匪《どひ》の斬罪《ざんざい》か何か見物でも出来りゃ格別だが、………」
僕はこう答えながら、内心長沙の人譚永年の顔をしかめるのを予想していた。しかし彼はもう一度愛想の好い顔に返ったぎり、少しもこだわらずに返事をした。
「じゃもう一週間前に来りゃ好いのに。あすこに少し空き地が見えるね。――」
それは赤煉瓦の西洋家屋の前、――丁度あの枝のつまった葉柳のある処に当っていた。が、さっきの支那美人はいつかもうそこには見えなくなっていた。
「あすこでこの間五人ばかり一時に首を斬《き》られたんだがね。そら、あの犬の歩いている処で、………」
「そりゃ惜しいことをしたな。」
「斬罪だけは日本じゃ見る訣《わけ》に行《ゆ》かない。」
譚は大声に笑った後、ちょっと真面目《まじめ》になったと思うと、無造作に話頭《わとう》を一転した。
「じゃそろそろ出かけようか? 車ももうあすこに待たせてあるんだ。」
* * * * *
僕は翌々十八日の午後、折角の譚の勧めに従い、湘江を隔てた嶽麓《がくろく》へ麓山寺《ろくざんじ》や愛晩亭を見物に出かけた。
僕等を乗せたモオタア・ボオトは在留日本人の「中の島」と呼ぶ三角洲《さんかくす》を左にしながら、二時前後の湘江を走って行った。からりと晴れ上った五月の天気は両岸の風景を鮮かにしていた。僕等の右に連った長沙も白壁や瓦屋根の光っているだけにきのうほど憂鬱《ゆううつ》には見えなかった。まして柑類《かんるい》の木の茂った、石垣の長い三角洲はところどころに小ぢんまりした西洋家屋を覗《のぞ》かせたり、その又西洋家屋の間に綱に吊《つ》った洗濯ものを閃《ひらめ》かせたり、如何にも活《い》き活《い》きと横たわっていた。
譚《たん》は若い船頭に命令を与える必要上、ボオトの艫《へさき》に陣どっていた。が、命令を与えるよりものべつに僕に話しかけていた。
「あれが日本領事館だ。………このオペラ・グラスを使い給え。………その右にあるのは日清汽船会社。」
僕は葉巻を銜《くわ》えたまま、舟ばたの外へ片手を下ろし、時々僕の指先に当る湘江《しょうこう》の水勢を楽しんでいた。譚の言葉は僕の耳に唯《ただ》一つづりの騒音だった。しかし彼の指さす通り、両岸の風景へ目をやるのは勿論《もちろん》僕にも不快ではなかった。
「この三角洲《さんかくす》は橘洲《きっしゅう》と言ってね。………」
「ああ、鳶《とび》が鳴いている。」
「鳶が?………うん、鳶も沢山いる。そら、いつか張継尭《ちょうけいぎょう》と譚延※[#「門<豈」、第3水準1−93−55]《たんえんがい》との戦争があった時だね、あの時にゃ張の部下の死骸《しがい》がいくつもこの川へ流れて来たもんだ。すると又鳶が一人の死骸へ二羽も三羽も下りて来てね………」
丁度譚のこう言いかけた時、僕等の乗っていたモオタア・ボオトはやはり一|艘《そう》のモオタア・ボオトと五六間隔ててすれ違った。それは支那服の青年の外にも見事に粧《よそお》った支那美人を二三人乗せたボオトだった。僕はこれ等の支那美人よりも寧《むし》ろそのボオトの大辷《おおすべ》りに浪《なみ》を越えるのを見守っていた。けれども譚は話半ばに彼等の姿を見るが早いか、殆《ほとん》ど仇《かたき》にでも遇《あ》ったように倉皇《そうこう》と僕にオペラ・グラスを渡した。
「あの女を見給え。あの艫《へさき》に坐《すわ》っている女を。」
僕は誰にでも急《せ》っつかれると、一層何かとこだわり易い親譲りの片意地を持合せていた。のみならずそのボオトの残した浪はこちらの舟ばたを洗いながら、僕の
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