るんだが。……」
 すると突然林大嬌は持っていた巻煙草《まきたばこ》に含芳を指さし、嘲《あざけ》るように何か言い放った。含芳は確かにはっとしたと見え、いきなり僕の膝を抑えるようにした。しかしやっと微笑したと思うと、すぐに又一こと言い返した。僕は勿論《もちろん》この芝居に、――或はこの芝居のかげになった、存外深いらしい彼等の敵意に好奇心を感ぜずにはいられなかった。
「おい、何と言ったんだい?」
「その人は誰の出迎いでもない、お母さんの出迎いに行ったんだと言うんだ。何、今ここにいる先生がね、×××と言う長沙の役者の出迎いか何かだろうと言ったもんだから。」(僕は生憎《あいにく》その名前だけはノオトにとる訣《わけ》に行かなかった。)
「お母さん?」
「お母さんと言うのは義理のお母さんだよ。つまりその人だの玉蘭《ぎょくらん》だのを抱えている家《いえ》の鴇婦《ポオプウ》のことだね。」
 譚は僕の問を片づけると、老酒を一杯|煽《あお》ってから、急に滔々《とうとう》と弁じ出した。それは僕には這箇《チイコ》這箇《チイコ》の外には一こともわからない話だった。が、芸者や鴇婦などの熱心に聞いているだけでも、何か興味のあることらしかった。のみならず時々僕の顔へ彼等の目をやる所を見ると、少くとも幾分かは僕自身にも関係を持ったことらしかった。僕は人目には平然と巻煙草を銜《くわ》えていたものの、だんだん苛立《いらだ》たしさを感じはじめた。
「莫迦《ばか》! 何を話しているんだ?」
「何、きょう嶽麓《がくろく》へ出かける途中、玉蘭に遇《あ》ったことを話しているんだ。それから……」
 譚は上脣《うわくちびる》を嘗《な》めながら、前よりも上機嫌につけ加えた。
「それから君は斬罪と言うものを見たがっていることを話しているんだ。」
「何だ、つまらない。」
 僕はこう言う説明を聞いても、未《いま》だに顔を見せない玉蘭は勿論、彼女の友だちの含芳にも格別気の毒とは思わなかった。けれども含芳の顔を見た時、理智的には彼女の心もちを可也《かなり》はっきりと了解した。彼女は耳環《みみわ》を震わせながら、テエブルのかげになった膝の上に手巾《ハンケチ》を結んだり解いたりしていた。
「じゃこれもつまらないか?」
 譚は後にいた鴇婦の手から小さい紙包みを一つ受け取り、得々とそれをひろげだした。その又紙の中には煎餅《せんべい》位大きい、チョコレェトの色に干からびた、妙なものが一枚包んであった。
「何だ、それは?」
「これか? これは唯のビスケットだがね。………そら、さっき黄《こう》六一と云う土匪《どひ》の頭目の話をしたろう? あの黄の首の血をしみこませてあるんだ。これこそ日本じゃ見ることは出来ない。」
「そんなものを又何にするんだ?」
「何にするもんか? 食うだけだよ。この辺じゃ未だにこれを食えば、無病息災になると思っているんだ。」
 譚は晴れ晴れと微笑したまま、丁度この時テエブルを離れた二三人の芸者に挨拶《あいさつ》した。が、含芳の立ちかかるのを見ると、殆《ほとん》ど憐《あわれ》みを乞うように何か笑ったりしゃべったりした。のみならずしまいには片手を挙げ、正面の僕を指さしたりした。含芳はちょっとためらった後《のち》、もう一度やっと微笑を浮かべ、テエブルの前に腰を下した。僕は大いに可愛《かわい》かったから、一座の人目に触れないようにそっと彼女の手を握っていてやった。
「こんな迷信こそ国辱だね。僕などは医者と言う職業上、ずいぶんやかましくも言っているんだが………」
「それは斬罪があるからだけさ。脳味噌《のうみそ》の黒焼きなどは日本でも嚥《の》んでいる。」
「まさか。」
「いや、まさかじゃない。僕も嚥んだ。尤《もっと》も子供のうちだったが。………」
 僕はこう言う話の中《うち》に玉蘭の来たのに気づいていた。彼女は鴇婦と立ち話をした後、含芳の隣に腰を下ろした。
 譚は玉蘭の来たのを見ると、又僕をそっちのけに彼女に愛嬌《あいきょう》をふりまき出した。彼女は外光に眺めるよりも幾分かは美しいのに違いなかった。少くとも彼女の笑う度にエナメルのように歯の光るのは見事だったのに違いなかった。しかし僕はその歯並みにおのずから栗鼠を思い出した。栗鼠は今でも不相変、赤い更紗《さらさ》の布《きれ》を下げた硝子窓《ガラスまど》に近い鳥籠の中に二匹とも滑らかに上下していた。
「じゃ一つこれをどうだ?」
 譚はビスケットを折って見せた。ビスケットは折り口も同じ色だった。
「莫迦を言え。」
 僕は勿論首を振った。譚は大声に笑ってから、今度は隣の林大嬌ヘビスケットの一片を勧めようとした。林大嬌はちょっと顔をしかめ、斜めに彼の手を押し戻した。彼は同じ常談《じょうだん》を何人かの芸者と繰り返した。が、そのうちにいつの間にか、やはり愛
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