ったり下ったりしていた。それは窓や戸口に下げた、赤い更紗《さらさ》の布《きれ》と一しょに珍しい見ものに違いなかった。しかし少くとも僕の目には気味の悪い見ものにも違いなかった。
この部屋に僕等を迎えたのは小肥《こぶと》りに肥った鴇婦《ポオプウ》だった。譚は彼女を見るが早いか、雄弁に何か話し出した。彼女も愛嬌《あいきょう》そのもののように滑かに彼と応対していた。が、彼等の話している言葉は一言も僕にはわからなかった。(これは勿論僕自身の支那語に通じていない為である。しかし元来|長沙《ちょうさ》の言葉は北京《ペキン》官話に通じている耳にも決して容易にはわからないらしい。)
譚は鴇婦と話した後《のち》、大きい紅木《こうぼく》のテエブルヘ僕と差向いに腰を下ろした。それから彼女の運んで来た活版刷の局票の上へ芸者の名前を書きはじめた。張湘娥《ちょうしょうが》、王巧雲《おうこううん》、含芳《がんほう》、酔玉楼《すいぎょくろう》、愛媛々《あいえんえん》、――それ等はいずれも旅行者の僕には支那小説の女主人公にふさわしい名前ばかりだった。
「玉蘭も呼ぼうか?」
僕は返事をしたいにもしろ、生憎《あいにく》鴇婦の火を擦ってくれる巻煙草の一本を吸いつけていた。が、譚はテエブル越しにちょっと僕の顔を見たぎり、無頓着に筆を揮《ふる》ったらしかった。
そこへ濶達《かつたつ》にはいって来たのは細い金縁の眼鏡をかけた、血色の好い円顔の芸者だった。彼女は白い夏衣裳《なついしょう》にダイアモンドを幾つも輝かせていた。のみならずテニスか水泳かの選手らしい体格も具《そな》えていた。僕はこう言う彼女の姿に美醜や好悪を感ずるよりも妙に痛切な矛盾を感じた。彼女は実際この部屋の空気と、――殊に鳥籠《とりかご》の中の栗鼠《りす》とは吊《つ》り合《あ》わない存在に違いなかった。
彼女はちょっと目礼したぎり、躍《おど》るように譚《たん》の側へ歩み寄った。しかも彼の隣に坐《すわ》ると、片手を彼の膝《ひざ》の上に置き、宛囀《えんてん》と何かしゃべり出した。譚も、――譚は勿論《もちろん》得意そうに是了《シイラ》是了《シイラ》などと答えていた。
「これはこの家《うち》にいる芸者《げいしゃ》でね、林大嬌《りんたいきょう》と言う人だよ。」
僕は譚にこう言われた時、おのずから彼の長沙《ちょうさ》にも少ない金持の子だったのを思い出した。
それから十分ばかりたった後、僕等はやはり向い合ったまま、木の子だの鶏だの白菜だのの多い四川料理《しせんりょうり》の晩飯をはじめていた。芸者はもう林大嬌の外にも大勢僕等をとり巻いていた。のみならず彼等の後ろには鳥打帽子などをかぶった男も五六人|胡弓《こきゅう》を構えていた。芸者は時々坐《すわ》ったなり、丁度胡弓の音に吊られるように甲高い唄《うた》をうたい出した。それは僕にも必ずしも全然面白味のないものではなかった。しかし僕は京調《けいちょう》の党馬や西皮調《せいひちょう》の汾河湾《ふんかわん》よりも僕の左に坐った芸者に遥《はる》かに興味を感じていた。
僕の左に坐ったのは僕のおととい※[#「さんずい+元」、第3水準1−86−54]江丸《げんこうまる》の上から僅《わず》かに一瞥《いちべつ》した支那美人だった。彼女は水色の夏衣裳の胸に不相変《あいかわらず》メダルをぶら下げていた。が、間近に来たのを見ると、たとい病的な弱々しさはあっても、存外ういういしい処はなかった。僕は彼女の横顔を見ながら、いつか日かげの土に育った、小さい球根を考えたりしていた。
「おい、君の隣に坐っているのはね、――」
譚は老酒《ラオチュ》に赤らんだ顔に人懐《ひとなつ》こい微笑を浮かべたまま、蝦《えび》を盛り上げた皿越しに突然僕へ声をかけた。
「それは含芳と言う人だよ」
僕は譚の顔を見ると、なぜか彼にはおとといのことを打ち明ける心もちを失ってしまった。
「この人の言葉は綺麗《きれい》だね。Rの音などは仏蘭西人《フランスじん》のようだ。」
「うん、その人は北京《ペキン》生れだから。」
僕等の話題になったことは含芳自身にもわかったらしかった。彼女は現に僕の顔へ時々素早い目をやりながら、早口に譚と問答をし出した。けれども唖《おうし》に変らない僕はこの時もやはりいつもの通り、唯《ただ》二人の顔色を見比べているより外はなかった。
「君はいつ長沙へ来たと尋《き》くからね、おととい来たばかりだと返事をすると、その人もおとといは誰《たれ》かの出迎いに埠頭《ふとう》まで行ったと言っているんだ。」
譚はこう言う通訳をした後《のち》、もう一度含芳へ話しかけた。が、彼女は頬笑《ほほえ》んだきり、子供のようにいやいや[#「いやいや」に傍点]をしていた。
「ふん、どうしても白状しない。誰の出迎いに行ったと尋いてい
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