手をカフスまでずぶ濡《ぬ》れにしていた。
「なぜ?」
「まあ、なぜでも好いから、あの女を見給え。」
「美人かい?」
「ああ、美人だ。美人だ。」
彼等を乗せたモオタア・ボオトはいつかもう十間ほど離れていた。僕はやっと体を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じまげ、オペラ・グラスの度を調節した。同時に又突然向うのボオトのぐいと後《あと》ずさりをする錯覚を感じた。「あの女」は円い風景の中にちょっと顔を横にしたまま、誰かの話を聞いていると見え、時々微笑を洩《も》らしていた。顋《あご》の四角い彼女の顔は唯目の大きいと言う以外に格別美しいとは思われなかった。が、彼女の前髪や薄い黄色の夏衣裳《なついしょう》の川風に波を打っているのは遠目にも綺麗《きれい》に違いなかった。
「見えたか?」
「うん、睫毛《まつげ》まで見える。しかしあんまり美人じゃないな。」
僕は何か得意らしい譚ともう一度顔を向い合せた。
「あの女がどうかしたのかい?」
譚はふだんのおしゃべりにも似ず、悠々と巻煙草《まきたばこ》に火をつけてから、あべこべに僕に問い返した。
「きのう僕はそう言ったね、――あの桟橋の前の空き地で五人ばかり土匪《どひ》の首を斬《き》ったって?」
「うん、それは覚えている。」
「その仲間の頭目は黄《こう》六一と言ってね。――ああ、そいつも斬られたんだ。――これが又右の手には小銃を持ち、左の手にはピストルを持って一時に二人射殺すと言う、湖南《こなん》でも評判の悪党だったんだがね。………」
譚は忽《たちま》ち黄六一の一生の悪業を話し出した。彼の話は大部分新聞記事の受け売りらしかった。しかし幸い血の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》よりもロマンティックな色彩に富んだものだった。黄の平生密輸入者たちに黄老爺《こうろうや》と呼ばれていた話、又|湘譚《しょうたん》の或|商人《あきんど》から三千元を強奪した話、又|腿《もも》に弾丸を受けた樊阿七《はんあしち》と言う副頭目を肩に蘆林譚《ろりんたん》を泳ぎ越した話、又|岳州《がくしゅう》の或山道に十二人の歩兵を射倒した話、――譚は殆ど黄六一を崇拝しているのかと思う位、熱心にそんなことを話しつづけた。
「何しろ君、そいつは殺人|※[#「てへん+虜」、第3水準1−85−1]人《りょじん》百十七件と言うんだからね。」
彼
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