ぶ三角洲《さんかくす》を左にしながら、二時前後の湘江を走って行った。からりと晴れ上った五月の天気は両岸の風景を鮮かにしていた。僕等の右に連った長沙も白壁や瓦屋根の光っているだけにきのうほど憂鬱《ゆううつ》には見えなかった。まして柑類《かんるい》の木の茂った、石垣の長い三角洲はところどころに小ぢんまりした西洋家屋を覗《のぞ》かせたり、その又西洋家屋の間に綱に吊《つ》った洗濯ものを閃《ひらめ》かせたり、如何にも活《い》き活《い》きと横たわっていた。
譚《たん》は若い船頭に命令を与える必要上、ボオトの艫《へさき》に陣どっていた。が、命令を与えるよりものべつに僕に話しかけていた。
「あれが日本領事館だ。………このオペラ・グラスを使い給え。………その右にあるのは日清汽船会社。」
僕は葉巻を銜《くわ》えたまま、舟ばたの外へ片手を下ろし、時々僕の指先に当る湘江《しょうこう》の水勢を楽しんでいた。譚の言葉は僕の耳に唯《ただ》一つづりの騒音だった。しかし彼の指さす通り、両岸の風景へ目をやるのは勿論《もちろん》僕にも不快ではなかった。
「この三角洲《さんかくす》は橘洲《きっしゅう》と言ってね。………」
「ああ、鳶《とび》が鳴いている。」
「鳶が?………うん、鳶も沢山いる。そら、いつか張継尭《ちょうけいぎょう》と譚延※[#「門<豈」、第3水準1−93−55]《たんえんがい》との戦争があった時だね、あの時にゃ張の部下の死骸《しがい》がいくつもこの川へ流れて来たもんだ。すると又鳶が一人の死骸へ二羽も三羽も下りて来てね………」
丁度譚のこう言いかけた時、僕等の乗っていたモオタア・ボオトはやはり一|艘《そう》のモオタア・ボオトと五六間隔ててすれ違った。それは支那服の青年の外にも見事に粧《よそお》った支那美人を二三人乗せたボオトだった。僕はこれ等の支那美人よりも寧《むし》ろそのボオトの大辷《おおすべ》りに浪《なみ》を越えるのを見守っていた。けれども譚は話半ばに彼等の姿を見るが早いか、殆《ほとん》ど仇《かたき》にでも遇《あ》ったように倉皇《そうこう》と僕にオペラ・グラスを渡した。
「あの女を見給え。あの艫《へさき》に坐《すわ》っている女を。」
僕は誰にでも急《せ》っつかれると、一層何かとこだわり易い親譲りの片意地を持合せていた。のみならずそのボオトの残した浪はこちらの舟ばたを洗いながら、僕の
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