も微笑の顔が見える時は、反つてその満足の自覚なるものが、一層明白に意識されて、その結果|愈《いよいよ》自分の卑しさを情なく思つた事も度々ある。それが何日か続いた今日、かうして師匠の枕もとで、末期の水を供する段になると、道徳的に潔癖な、しかも存外神経の繊弱な彼が、かう云ふ内心の矛盾の前に、全然落着きを失つたのは、気の毒ではあるが無理もない。だから去来は羽根楊子をとり上げると、妙に体中が固くなつて、その水を含んだ白い先も、芭蕉の唇を撫でながら、頻《しきり》にふるへてゐた位、異常な興奮に襲《おそ》はれた。が、幸《さいはひ》、それと共に、彼の睫毛《まつげ》に溢れようとしてゐた、涙の珠もあつたので、彼を見てゐた門弟たちは、恐《おそら》くあの辛辣《しんらつ》な支考まで、全くこの興奮も彼の悲しみの結果だと解釈してゐた事であらう。
やがて去来が又憲法小紋の肩をそば立てて、おづおづ席に復すると、羽根楊子はその後にゐた丈艸の手へわたされた。日頃から老実な彼が、つつましく伏眼になつて、何やらかすかに口の中で誦《ず》しながら、静に師匠の唇を沾《うるほ》してゐる姿は、恐らく誰の見た眼にも厳《おごそか》だつたの
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