ほひ》、彼の心の底に大きな満足の種を蒔《ま》いた。それが唯、意識せられざる満足として、彼の活動の背景に暖い心もちをひろげてゐた中は、元より彼も行住坐臥に、何等のこだはりを感じなかつたらしい。さもなければ夜伽《よとぎ》の行燈《あんどう》の光の下で、支考と浮世話に耽つてゐる際にも、故《ことさら》に孝道の義を釈《と》いて、自分が師匠に仕へるのは親に仕へる心算《つもり》だなどと、長々しい述懐はしなかつたであらう。しかしその時、得意な彼は、人の悪い支考の顔に、ちらりと閃いた苦笑を見ると、急に今までの心の調和に狂ひの出来た事を意識した。さうしてその狂ひの原因は、始めて気のついた自分の満足と、その満足に対する自己批評とに存してゐる事を発見した。明日にもわからない大病の師匠を看護しながら、その容態をでも心配する事か、徒《いたづら》に自分の骨折ぶりを満足の眼で眺めてゐる。――これは確に、彼の如き正直者の身にとつて、自ら疚《やま》しい心もちだつたのに違ひない。それ以来去来は何をするのにも、この満足と悔恨との扞挌《かんかく》から、自然と或程度の掣肘《せいちう》を感じ出した。将《まさ》に支考の眼の中に、偶然で
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