ので、折角の彼の勇気も、途中で挫折してしまつたのであらう。「師匠の次に死ぬものは、事によると自分かも知れない」――絶えずかう云ふ予感めいた声を、耳の底に聞いてゐた惟然坊は、小さな体をすくませながら、自分の席へ返つた後も、無愛想な顔を一層無愛想にして、なる可く誰の顔も見ないやうに、上眼ばかり使つてゐた。
 続いて乙州、正秀、之道、木節と、病床を囲んでゐた門人たちは、順々に師匠の唇を沾《うるほ》した。が、その間に芭蕉の呼吸は、一息毎に細くなつて、数さへ次第に減じて行く。喉も、もう今では動かない。うす痘痕《いも》の浮んでゐる、どこか蝋《らふ》のやうな小さい顔、遥な空間を見据ゑてゐる、光の褪《あ》せた瞳の色、さうして頤《おとがひ》にのびてゐる、銀のやうな白い鬚《ひげ》――それが皆人情の冷さに凍《い》てついて、やがて赴くべき寂光土を、ぢつと夢みてゐるやうに思はれる。するとこの時、去来の後の席に、黙然と頭《かうべ》を垂れてゐた丈艸は、あの老実な禅客の丈艸は、芭蕉の呼吸のかすかになるのに従つて、限りない悲しみと、さうして又限りない安らかな心もちとが、徐《おもむろ》に心の中へ流れこんで来るのを感じ出した。悲しみは元より説明を費すまでもない。が、その安らかな心もちは、恰《あたか》も明方の寒い光が次第に暗《やみ》の中にひろがるやうな、不思議に朗《ほがらか》な心もちである。しかもそれは刻々に、あらゆる雑念を溺らし去つて、果ては涙そのものさへも、毫《がう》も心を刺す痛みのない、清らかな悲しみに化してしまふ。彼は師匠の魂が虚夢の生死を超越して、常住涅槃《じやうぢゆうねはん》の宝土に還つたのを喜んででもゐるのであらうか。いや、これは彼自身にも、肯定の出来ない理由であつた。それならば――ああ、誰か徒《いたづら》に※[#「足へん+諮のつくり」、第4水準2−89−41]※[#「足へん+阻のつくり」、第4水準2−89−28]《しそ》逡巡して、己を欺くの愚を敢《あへ》てしよう。丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏《しつこく》に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸《やうや》く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚《くわうこつ》たる悲しい喜びの中に、菩提樹《ぼだいじゆ》の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払つて去つた如く、
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