に横風に構へながら、無造作に師匠の唇へ水を塗つた。しかし彼と雖《いへど》もこの場合、勿論多少の感慨があつた事は争はれない。「野ざらしを心に風のしむ身かな」――師匠は四五日前に、「かねては草を敷き、土を枕にして死ぬ自分と思つたが、かう云ふ美しい蒲団の上で、往生の素懐を遂げる事が出来るのは、何よりも悦ばしい」と繰返して自分たちに、礼を云はれた事がある。が、実は枯野のただ中も、この花屋の裏座敷も、大した相違がある訳ではない。現にかうして口をしめしてゐる自分にしても、三四日前までは、師匠に辞世の句がないのを気にかけてゐた。それから昨日は、師匠の発句《ほつく》を滅後に一集する計画を立ててゐた。最後に今日は、たつた今まで、刻々臨終に近づいて行く師匠を、どこかその経過に興味でもあるやうな、観察的な眼で眺めてゐた。もう一歩進めて皮肉に考へれば、事によるとその眺め方の背後には、他日自分の筆によつて書かるべき終焉記《しゆうえんき》の一節さへ、予想されてゐなかつたとは云へない。して見れば師匠の命終《めいしゆう》に侍しながら、自分の頭を支配してゐるものは、他門への名聞《みやうもん》、門弟たちの利害、或は又自分一身の興味打算――皆直接垂死の師匠とは、関係のない事ばかりである。だから師匠はやはり発句の中で、屡《しばしば》予想を逞《たくまし》くした通り、限りない人生の枯野の中で、野ざらしになつたと云つて差支へない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼《いた》まずに、師匠を失つた自分たち自身を悼んでゐる。枯野に窮死した先達を歎かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を歎いてゐる。が、それを道徳的に非難して見た所で、本来薄情に出来上つた自分たち人間をどうしよう。――かう云ふ厭世的な感慨に沈みながら、しかもそれに沈み得る事を得意にしてゐた支考は、師匠の唇をしめし終つて、羽根楊子を元の湯呑へ返すと、涙に咽《むせ》んでゐる門弟たちを、嘲《あざけ》るやうにじろりと見廻して、徐《おもむろ》に又自分の席へ立ち戻つた。人の好い去来の如きは、始からその冷然とした態度に中《あ》てられて、さつきの不安を今更のやうに又新にしたが、独り其角が妙に擽《くすぐ》つたい顔をしてゐたのは、どこまでも白眼《はくがん》で押し通さうとする東花坊のこの性行上の習気を、小うるさく感じてゐたらしい。
 支考に続いて惟然坊《ゐねんばう》が、墨染の法衣《
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