に相違ない。が、この厳な瞬間に突然座敷の片すみからは、不気味な笑ひ声が聞え出した。いや、少くともその時は、聞え出したと思はれたのである。それはまるで腹の底からこみ上げて来る哄笑《こうせう》が、喉《のど》と唇とに堰《せ》かれながら、しかも猶可笑《なほをか》しさに堪へ兼ねて、ちぎれちぎれに鼻の孔から、迸《ほとばし》つて来るやうな声であつた。が、云ふまでもなく、誰もこの場合、笑を失したものがあつた訳ではない。声は実にさつきから、涙にくれてゐた正秀の抑へに抑へてゐた慟哭《どうこく》が、この時胸を裂いて溢れたのである。その慟哭は勿論、悲愴《ひさう》を極めてゐたのに相違なかつた。或はそこにゐた門弟の中には、「塚も動けわが泣く声は秋の風」と云ふ、師匠の名句を思ひ出したものも、少くはなかつた事であらう。が、その凄絶《せいぜつ》なる可き慟哭にも、同じく涙に咽《むせ》ばうとしてゐた乙州は、その中にある一種の誇張に対して、――と云ふのが穏《おだやか》でないならば、慟哭を抑制すべき意志力の欠乏に対して、多少不快を感じずにはゐられなかつた。唯、さう云ふ不快の性質は、どこまでも智的なものに過ぎなかつたのであらう。彼の頭が否と云つてゐるにも関らず、彼の心臓は忽《たちま》ち正秀の哀慟の声に動かされて、何時か眼の中は涙で一ぱいになつた。が、彼が正秀の慟哭を不快に思ひ、延《ひ》いては彼自身の涙をも潔《いさぎよ》しとしない事は、さつきと少しも変りはない。しかも涙は益《ますます》眼に溢れて来る――乙州は遂に両手を膝の上についた儘、思はず嗚咽《をえつ》の声を発してしまつた。が、この時|歔欷《きよき》するらしいけはひを洩らしたのは、独り乙州ばかりではない。芭蕉の床の裾の方に控へてゐた、何人かの弟子の中からは、それと殆《ほとんど》同時に洟《はな》をすする声が、しめやかに冴《さ》えた座敷の空気をふるはせて、断続しながら聞え始めた。
その惻々《そくそく》として悲しい声の中に、菩提樹の念珠を手頸にかけた丈艸は、元の如く静に席へ返つて、あとには其角や去来と向ひあつてゐる、支考が枕もとへ進みよつた。が、この皮肉屋を以て知られた東花坊には周囲の感情に誘ひこまれて、徒《いたづら》に涙を落すやうな繊弱な神経はなかつたらしい。彼は何時もの通り浅黒い顔に、何時もの通り人を莫迦《ばか》にしたやうな容子を浮べて、更に又何時もの通り妙
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