康は頷《うなず》いたぎり、何《なん》ともこの言葉に答えなかった。のみならず直孝を呼び寄せると、彼の耳へ口をつけるようにし、「その女の素姓《すじょう》だけは検《しら》べておけよ」と小声に彼に命令した。
三
家康の実検をすました話はもちろん井伊の陣屋にも伝わって来ずにはいなかった。古千屋《こちや》はこの話を耳にすると、「本望《ほんもう》、本望」と声をあげ、しばらく微笑を浮かべていた。それからいかにも疲れはてたように深い眠りに沈んで行った。井伊の陣屋の男女《なんにょ》たちはやっと安堵《あんど》の思いをした。実際古千屋の男のように太い声に罵《ののし》り立てるのは気味の悪いものだったのに違いなかった。
そのうちに夜《よ》は明けて行った。直孝《なおたか》は早速《さっそく》古千屋《こちや》を召し、彼女の素姓《すじょう》を尋ねて見ることにした。彼女はこういう陣屋にいるには余りにか細い女だった。殊に肩の落ちているのはもの哀れよりもむしろ痛々しかった。
「そちはどこで産《うま》れたな?」
「芸州《げいしゅう》広島《ひろしま》の御城下《ごじょうか》でございます。」
直孝はじっと古千
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