なさるのはその好《よ》い証拠ではございませぬか?」
 家康は花鳥《かちょう》の襖越《ふすまご》しに正純の言葉を聞いた後《のち》、もちろん二度と直之の首を実検しようとは言わなかった。

        二

 すると同じ三十日の夜《よ》、井伊掃部頭直孝《いいかもんのかみなおたか》の陣屋《じんや》に召し使いになっていた女が一人|俄《にわか》に気の狂ったように叫び出した。彼女はやっと三十を越した、古千屋《こちや》という名の女だった。
「塙団右衛門《ばんだんえもん》ほどの侍《さむらい》の首も大御所《おおごしょ》の実検には具《そな》えおらぬか? 某《それがし》も一手《ひとて》の大将だったものを。こういう辱《はずか》しめを受けた上は必ず祟《たた》りをせずにはおかぬぞ。……」
 古千屋はつづけさまに叫びながら、その度に空中へ踊《おど》り上ろうとした。それはまた左右の男女《なんにょ》たちの力もほとんど抑えることの出来ないものだった。凄《すさま》じい古千屋の叫び声はもちろん、彼等の彼女を引据えようとする騒ぎも一かたならないのに違いなかった。
 井伊の陣屋の騒《さわ》がしいことはおのずから徳川家康《とくが
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