冷笑に近い表情を見ると、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をついたことを後悔する、――と云うよりも寧《むし》ろ彼女の心も汲《く》み分けてくれない腰ぬけの母に何か情無さを感じ勝ちだった。
 お鈴は父を送り出した後、一家のことを考える為にミシンの手をやめるのも度たびだった。玄鶴はお芳を囲い出さない前にも彼女には「立派なお父さん」ではなかった。しかし勿論そんなことは気の優しい彼女にはどちらでも善かった。唯《ただ》彼女に気がかりだったのは父が書画骨董《しょがこっとう》までもずんずん妾宅へ運ぶことだった。お鈴はお芳が女中だった時から、彼女を悪人と思ったことはなかった。いや、寧ろ人並みよりも内気な女と思っていた。が、東京の或る場末に肴屋《さかなや》をしているお芳の兄は何をたくらんでいるかわからなかった。実際又彼は彼女の目には妙に悪賢い男らしかった。お鈴は時々重吉をつかまえ、彼女の心配を打ち明けたりした。けれども彼は取り合わなかった。「僕からお父さんに言う訣《わけ》には行かない。」――お鈴は彼にこう言われて見ると、黙ってしまうより外はなかった。
「まさかお父さんも羅両峯《らりょうほう》の画がお芳にわかるとも思っていないんでしょうが。」
 重吉も時たまお鳥にはそれとなしにこんなことも話したりしていた。が、お鳥は重吉を見上げ、いつも唯苦笑してこう言うのだった。
「あれがお父さんの性分なのさ。何しろお父さんはあたしにさえ『この硯《すずり》はどうだ?』などと言う人なんだからね。」
 しかしそんなことも今になって見れば、誰にも莫迦莫迦《ばかばか》しい心配だった。玄鶴は今年の冬以来、どっと病の重った為に妾宅通いも出来なくなると、重吉が持ち出した手切れ話に(尤もその話の条件などは事実上彼よりもお鳥やお鈴が拵《こしら》えたと言うのに近いものだった。)存外素直に承諾した。それは又お鈴が恐れていたお芳の兄も同じことだった。お芳は千円の手切れ金を貰い、上総《かずさ》の或海岸にある両親の家へ帰った上、月々文太郎の養育料として若干の金を送って貰う、――彼はこういう条件に少しも異存を唱えなかった。のみならず妾宅に置いてあった玄鶴の秘蔵の煎茶《せんちゃ》道具なども催促されぬうちに運んで来た。お鈴は前に疑っていただけに一層彼に好意を感じた。
「就《つ》きましては妹のやつが若《も》しお手でも足りま
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