芳の顔を見た時、存外彼女が老《ふ》けたことを感じた。しかもそれは顔ばかりではなかった。お芳は四五年以前には円まると肥《ふと》った手をしていた。が、年は彼女の手さえ静脈の見えるほど細らせていた。それから彼女が身につけたものも、――お鈴は彼女の安ものの指環《ゆびわ》に何か世帯じみた寂しさを感じた。
「これは兄が檀那様《だんなさま》に差し上げてくれと申しましたから。」
お芳は愈《いよいよ》気後れのしたように古い新聞紙の包みを一つ、茶の間へ膝《ひざ》を入れる前にそっと台所の隅へ出した。折から洗いものをしていたお松はせっせと手を動かしながら、水々しい銀杏返《いちょうがえ》しに結ったお芳を時々尻目に窺《うかが》ったりしていた。が、この新聞紙の包みを見ると、更に悪意のある表情をした。それは又実際|文化竈《ぶんかかまど》や華奢《きゃしゃ》な皿小鉢と調和しない悪臭を放っているのに違いなかった。お芳はお松を見なかったものの、少くともお鈴の顔色に妙なけはいを感じたと見え、「これは、あの、大蒜《にんにく》でございます」と説明した。それから指を噛《か》んでいた子供に「さあ、坊ちゃん、お時宜《じぎ》なさい」と声をかけた。男の子は勿論《もちろん》玄鶴がお芳に生ませた文太郎だった。その子供をお芳が「坊ちゃん」と呼ぶのはお鈴には如何にも気の毒だった。けれども彼女の常識はすぐにそれもこう云う女には仕かたがないことと思い返した。お鈴はさりげない顔をしたまま、茶の間の隅に坐《すわ》った親子に有り合せの菓子や茶などをすすめ、玄鶴の容態を話したり、文太郎の機嫌をとったりし出した。………
玄鶴はお芳を囲い出した後、省線電車の乗り換えも苦にせず、一週間に一二度ずつは必ず妾宅《しょうたく》へ通って行った。お鈴はこう云う父の気もちに始めのうちは嫌悪を感じていた。「ちっとはお母さんの手前も考えれば善いのに、」――そんなことも度たび考えたりした。尤《もっと》もお鳥は何ごとも詮《あきら》め切っているらしかった。しかしお鈴はそれだけ一層母を気の毒に思い、父が妾宅へ出かけた後でも母には「きょうは詩の会ですって」などと白々しい※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》をついたりしていた。その※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]が役に立たないことは彼女自身も知らないのではなかった。が、時々母の顔に
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