「いや、何でもない。何にも可笑しいことはありません。――」
 玄鶴はまだ笑いながら、細い右手を振って見せたりした。
「今度は………なぜかこう可笑しゅうなってな。………今度はどうか横にして下さい。」
 一時間ばかりたった後、玄鶴はいつか眠っていた。その晩は夢も恐しかった。彼は樹木の茂った中に立ち、腰の高い障子の隙《すき》から茶室めいた部屋を覗《のぞ》いていた。そこには又まる裸の子供が一人、こちらへ顔を向けて横になっていた。それは子供とは云うものの、老人のように皺《しわ》くちゃだった。玄鶴は声を挙げようとし、寝汗だらけになって目を醒ました。…………
「離れ」には誰も来ていなかった。のみならずまだ薄暗かった。まだ?――しかし玄鶴は置き時計を見、彼是《かれこれ》正午に近いことを知った。彼の心は一瞬間、ほっとしただけに明るかった。けれども又いつものように忽《たちま》ち陰欝《いんうつ》になって行った。彼は仰向けになったまま、彼自身の呼吸を数えていた。それは丁度何ものかに「今だぞ」とせかれている気もちだった。玄鶴はそっと褌を引き寄せ、彼の頭に巻きつけると、両手にぐっと引っぱるようにした。
 そこへ丁度顔を出したのはまるまると着膨《きぶく》れた武夫だった。
「やあ、お爺さんがあんなことをしていらあ。」
 武夫はこう囃《はや》しながら、一散に茶の間へ走って行った。

   六

 一週間ばかりたった後、玄鶴は家族たちに囲まれたまま、肺結核の為に絶命した。彼の告別式は盛大(!)だった。(唯、腰ぬけのお鳥だけはその式にも出る訣に行かなかった。)彼の家に集まった人々は重吉夫婦に悔みを述べた上、白い綸子《りんず》に蔽《おお》われた彼の柩《ひつぎ》の前に焼香した。が、門を出る時には大抵彼のことを忘れていた。尤《もっと》も彼の故|朋輩《ほうばい》だけは例外だったのに違いなかった。「あの爺さんも本望だったろう。若い妾《めかけ》も持っていれば、小金もためていたんだから。」――彼等は誰も同じようにこんなことばかり話し合っていた。
 彼の柩《ひつぎ》をのせた葬用馬車は一|輛《りょう》の馬車を従えたまま、日の光も落ちない師走《しわす》の町を或火葬場へ走って行った。薄汚い後の馬車に乗っているのは重吉や彼の従弟《いとこ》だった。彼の従弟の大学生は馬車の動揺を気にしながら、重吉と余り話もせずに小型の本に読み
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