耽《ふけ》っていた。それは Liebknecht の追憶録の英訳本だった。が、重吉は通夜疲れの為にうとうと居睡《いねむ》りをしていなければ、窓の外の新開町を眺め、「この辺もすっかり変ったな」などと気のない独り語を洩《も》らしていた。
二輛の馬車は霜どけの道をやっと火葬場へ辿《たど》り着いた。しかし予《あらかじ》め電話をかけて打ち合せて置いたのにも関らず、一等の竈は満員になり、二等だけ残っていると云うことだった。それは彼等にはどちらでも善かった。が、重吉は舅《しゅうと》よりも寧《むし》ろお鈴の思惑を考え、半月形の窓越しに熱心に事務員と交渉した。
「実は手遅れになった病人だしするから、せめて火葬にする時だけは一等にしたいと思うんですがね。」――そんな※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》もついて見たりした。それは彼の予期したよりも効果の多い※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]らしかった。
「ではこうしましょう。一等はもう満員ですから、特別に一等の料金で特等で焼いて上げることにしましょう。」
重吉は幾分か間の悪さを感じ、何度も事務員に礼を言った。事務員は真鍮《しんちゅう》の眼鏡をかけた好人物らしい老人だった。
「いえ、何、お礼には及びません。」
彼等は竈に封印した後、薄汚い馬車に乗って火葬場の門を出ようとした。すると意外にもお芳が一人、煉瓦塀《れんがべい》の前に佇《たたず》んだまま、彼等の馬車に目礼していた。重吉はちょっと狼狽《ろうばい》し、彼の帽を上げようとした。しかし彼等を乗せた馬車はその時にはもう傾きながら、ポプラアの枯れた道を走っていた。
「あれですね?」
「うん、………俺たちの来た時もあすこにいたかしら。」
「さあ、乞食《こじき》ばかりいたように思いますがね。……あの女はこの先どうするでしょう?」
重吉は一本の敷島《しきしま》に火をつけ、出来るだけ冷淡に返事をした。
「さあ、どう云うことになるか。……」
彼の従弟は黙っていた。が、彼の想像は上総《かずさ》の或海岸の漁師町を描いていた。それからその漁師町に住まなければならぬお芳親子も。――彼は急に険しい顔をし、いつかさしはじめた日の光の中にもう一度リイプクネヒトを読みはじめた。
底本:「昭和文学全集 第一巻」小学館
1987(昭和62)年5月1日初版第1刷発行
前へ
次へ
全15ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング